2010.12.30 (Thu)
小学校の教師をやっている友人の話。
彼女は、自分は他人を嫌いにならない、と言った。
誰かのことが一時的にイヤになることはあっても、
その人自身を嫌いにはならないのだとのこと。
興味深くて詳しく聞いているうちに、
なんとなくわかってきたのは、
彼女は、自分自身を許せる人なんだなということ。
本人は「わたし、テキトーだから」と言っていたが、
どうやら彼女のいうテキトーとは、not完璧主義、
つまり、自分の至らない点を責めないという意味であるらしい。
対極の例として、完璧主義の人のことを考えるとわかりやすいか。
完璧主義者とは、
何事もカンペキに仕上げないと気がすまない人のことであり、
物事をカンペキにこなす能力の有無とは無関係である。
なので、しばしば達成目標と自分の能力との差異に
ストレスを感じることになる。
それだけなら良いが、大抵その次に生じるのは、
自分がストレスを感じてる点についてストレスを感じない
他人への苛立ちである。
私が苦しんでるのに、自分より能力の低い人間が
なぜヘラヘラしていられるの?ということだ。
「能力」という表現を使ったが、
どんな人間の性格的要素についても同じことだ。
完璧に誠実であろうとする人は、誠実であろうとしない人を許せない。
完璧に勇敢であろうとする人は、勇敢であろうとしない人を許せない。
端的にいえばそういう構図。
こういった経緯で、自分に厳しい人間が、
意識的にせよ無意識的にせよ、
他人に厳しくなるのは自然なことに思われる。
対して、自分に甘い人間は、
きっと他人にも寛大でいることができるのだろう。
寛大というか、そもそも細かい不備がいちいち気にならない。
ただ、一方で「自分に厳しく、他人に甘く」なんて言葉もあって、
実際に自然体でそういう人が居なくもない気がするので、
そのへんはまだ保留にしておこう…。
話を戻して、その彼女だが、
実際には最近、
自分に対して苛立つことが増えたと言っていた。
それは、テキトーが許されない場面が増えてきたからだと。
今までは自分がテキトーであっても
せいぜい自分が損をするだけで済むことが多かったが、
自分がテキトーだと周りに迷惑がかかる状況が増えてきたので
そうも言っていられなくなったという。
皮肉というか、悪循環だなぁと思った。
テキトーを許容できない人がテキトーな人間を咎め、
テキトーを許容できない人間が増えていく。
虐待が親から子へ受け継がれるのと、たぶん同じ構図。
というかまあ、どちらを取るかは
ある程度まで二者択一的なのだろう。
電車は1分単位で正確に走るし、
店員からは完璧な敬語で接客を受けられる。
テキトーでない日本の近代文化の恩恵を
我々は十分すぎるほど受けてきたわけだし。
そしてまた、マスコミの見つけたテキトーな人間を
袋叩きにすることで、我々は日々の退屈を埋めているわけだし。
関連エントリー:
・インターネットは少なくとも一つの不幸を解消し、少なくとも一つの不幸を創造した。ラッセルの予言どおりに。
・あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド
・汝、汝を許可せよ。―[書評]20歳のときに知っておきたかったこと
彼女は、自分は他人を嫌いにならない、と言った。
誰かのことが一時的にイヤになることはあっても、
その人自身を嫌いにはならないのだとのこと。
興味深くて詳しく聞いているうちに、
なんとなくわかってきたのは、
彼女は、自分自身を許せる人なんだなということ。
本人は「わたし、テキトーだから」と言っていたが、
どうやら彼女のいうテキトーとは、not完璧主義、
つまり、自分の至らない点を責めないという意味であるらしい。
対極の例として、完璧主義の人のことを考えるとわかりやすいか。
完璧主義者とは、
何事もカンペキに仕上げないと気がすまない人のことであり、
物事をカンペキにこなす能力の有無とは無関係である。
なので、しばしば達成目標と自分の能力との差異に
ストレスを感じることになる。
それだけなら良いが、大抵その次に生じるのは、
自分がストレスを感じてる点についてストレスを感じない
他人への苛立ちである。
私が苦しんでるのに、自分より能力の低い人間が
なぜヘラヘラしていられるの?ということだ。
「能力」という表現を使ったが、
どんな人間の性格的要素についても同じことだ。
完璧に誠実であろうとする人は、誠実であろうとしない人を許せない。
完璧に勇敢であろうとする人は、勇敢であろうとしない人を許せない。
端的にいえばそういう構図。
こういった経緯で、自分に厳しい人間が、
意識的にせよ無意識的にせよ、
他人に厳しくなるのは自然なことに思われる。
対して、自分に甘い人間は、
きっと他人にも寛大でいることができるのだろう。
寛大というか、そもそも細かい不備がいちいち気にならない。
ただ、一方で「自分に厳しく、他人に甘く」なんて言葉もあって、
実際に自然体でそういう人が居なくもない気がするので、
そのへんはまだ保留にしておこう…。
話を戻して、その彼女だが、
実際には最近、
自分に対して苛立つことが増えたと言っていた。
それは、テキトーが許されない場面が増えてきたからだと。
今までは自分がテキトーであっても
せいぜい自分が損をするだけで済むことが多かったが、
自分がテキトーだと周りに迷惑がかかる状況が増えてきたので
そうも言っていられなくなったという。
皮肉というか、悪循環だなぁと思った。
テキトーを許容できない人がテキトーな人間を咎め、
テキトーを許容できない人間が増えていく。
虐待が親から子へ受け継がれるのと、たぶん同じ構図。
というかまあ、どちらを取るかは
ある程度まで二者択一的なのだろう。
電車は1分単位で正確に走るし、
店員からは完璧な敬語で接客を受けられる。
テキトーでない日本の近代文化の恩恵を
我々は十分すぎるほど受けてきたわけだし。
そしてまた、マスコミの見つけたテキトーな人間を
袋叩きにすることで、我々は日々の退屈を埋めているわけだし。
関連エントリー:
・インターネットは少なくとも一つの不幸を解消し、少なくとも一つの不幸を創造した。ラッセルの予言どおりに。
・あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド
・汝、汝を許可せよ。―[書評]20歳のときに知っておきたかったこと
テケトー派 |
2011.01.06(木) 07:36 | URL |
【コメント編集】
自分に甘いだけ って人はいます たくさん
自分に甘い派 |
2012.11.08(木) 00:03 | URL |
【コメント編集】
でも私、テキトーなひとよりは、完璧主義な人の方がずっと好きですし、
勇敢であろうとする人の方に好感を持ちます…
彼女は、テキトー主義を入れて「丁度良いいくらいの性格」
だったんだと思います。
でも、日本にあんまりテキトー主義の人が増えてしまったら
困ります…
元々テキトー主義の人と、
「元々は完璧主義で、その為のストレスを減らそうと、
他人に優しくなろうとテキトー主義を取り入れる」人には、
相当の違いがある気がします。
勇敢であろうとする人の方に好感を持ちます…
彼女は、テキトー主義を入れて「丁度良いいくらいの性格」
だったんだと思います。
でも、日本にあんまりテキトー主義の人が増えてしまったら
困ります…
元々テキトー主義の人と、
「元々は完璧主義で、その為のストレスを減らそうと、
他人に優しくなろうとテキトー主義を取り入れる」人には、
相当の違いがある気がします。
KK |
2013.06.20(木) 00:21 | URL |
【コメント編集】
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テケトーVS完璧主義!
人間関係における永遠のテーマのように思います。しかし、誰しも『ある部分ではテケトーであり、ある部分では完璧主義である』と思います。すべてが大局的に判断されているわけではなく、部分的にテケトーOR完璧を判断しているのだろう…と。多数が完璧を求めない部分に力を入れてしまうマニア(オタクな人々)を、多数が理解できないのは必然なことと同じでしょうか。
その部分を包含しあう相手に対しては『好意』を持ち、包含しにくい(包含しない)相手には『不快・苛立ち・敵意』を持ってしまうのでしょう。
『恋愛』と一緒ですね。
そんな私は最近、離縁しました。
(リアルな意見でしょ♪)