2008.12.08 (Mon)
『バカの壁』で面白いなーと思ったのは、
個性が大事だとかいうなよっていう話。
養老氏曰く、今の若い人は、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも
口では「個性を発揮しろ」と言われる矛盾した境遇に置かれている。
要するにその命令の真意は、「求められる個性」、つまり
組織が期待するパターンの個性を発揮しろということでしかないと。
そして、養老氏ははっきりと言い切っている。
個性なんてものは初めから与えられているものであって、
それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもないと。
「自分の個性って何だろう」って悩んでいる人には、
「あんたと隣の人と間違えるやつ、誰もいないよ」
と言ってやればいいと(笑)
だから教育現場で個性を伸ばせなんてことを言うよりは、
親の気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちがわかるか、
友達の気持ちがわかるかと、共通性を追求するほうが余程まともだと。
そういえば以前、村山先生の教育人間塾の中でも、
「個性なんて言葉は教育現場では死語になりつつある」という話を聞いた。
同じ意味だったのかわからないが、へぇーそうなんだと意外に思った。
私が「個性」と聞いて思い出すのは、
THE BLUE HEARTSのYOUNG AND PRETTY収録の
「ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)」という歌。
養老氏の言わんとしていることを、わずか4行で表現してしまっている!?
関連エントリー:
日本語にも定冠詞と不定冠詞の違いは存在するッ・・・!!
あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド
悪者を排除しようとすることほど非建設的なことはない
やりがい
個性が大事だとかいうなよっていう話。
養老氏曰く、今の若い人は、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも
口では「個性を発揮しろ」と言われる矛盾した境遇に置かれている。
要するにその命令の真意は、「求められる個性」、つまり
組織が期待するパターンの個性を発揮しろということでしかないと。
そして、養老氏ははっきりと言い切っている。
個性なんてものは初めから与えられているものであって、
それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもないと。
「自分の個性って何だろう」って悩んでいる人には、
「あんたと隣の人と間違えるやつ、誰もいないよ」
と言ってやればいいと(笑)
だから教育現場で個性を伸ばせなんてことを言うよりは、
親の気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちがわかるか、
友達の気持ちがわかるかと、共通性を追求するほうが余程まともだと。
そういえば以前、村山先生の教育人間塾の中でも、
「個性なんて言葉は教育現場では死語になりつつある」という話を聞いた。
同じ意味だったのかわからないが、へぇーそうなんだと意外に思った。
私が「個性」と聞いて思い出すのは、
THE BLUE HEARTSのYOUNG AND PRETTY収録の
「ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)」という歌。
どこかのエライ人テレビでしゃべってる
「今の若い人には個性がなさすぎる」
僕等はそれを見て一同大笑い
個性があればあるで押さえつけるくせに
養老氏の言わんとしていることを、わずか4行で表現してしまっている!?
関連エントリー:
日本語にも定冠詞と不定冠詞の違いは存在するッ・・・!!
あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド
悪者を排除しようとすることほど非建設的なことはない
やりがい
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2008.10.21 (Tue)
ちょっと保育施設で働く友人が悩んでたから
したり顔でふぃんらんど・めそっどを語ったら
なんか不服申立てされたので、ちゃんと記事書きます。
テーマは、生徒が悪いことを悪いと思わない場合どうするの?ってこと。
つまり、「なんで謝んなきゃいけないの?」って言われたときに、
「自分が同じことされたら嫌でしょ?」って言っても、
そういう気持ちにならない子に対してはそれは意味のない言葉で、
だけどそういうルールを教えないわけにはいかないし・・・っていう話。
ちょっと小学校のときの体験を思い出したのでまずその話から。
小学3年のとき、クラスの女の子が廊下で嘔吐しちゃって、
それを同じクラスの悪ガキがからかったことがあった。
当時流行ってたWE ARE THE CHAMPのメロディで
「オ~エ~オエオエオエ~」っていう替え歌作って。
それを後で先生が叱ったんだけど、やはりというか、
「○○くんもそういうことされたら嫌でしょ?」って咎めた。
そしたら○○くんは「別に。楽しいじゃん」みたいに答えた。
そのとき、最終的にその先生は
「じゃあ○○くんはあまのじゃくなんだね。みんなと違って」
っていう言い方をしてた。
そのときのことは、確かに自分の中でちょっとひっかかってた。
学校の教師として、こういうときにどういう指導をするべきなんだろうか。
やはり「吐いた人をからかっちゃだめだよ」っていうことを教えるべきなのだろうけど、
「なんで?」ってなったら、なんでなのだろう。
ちょうど先日の教育人間塾で、フリースクールについて考えるとき、
村山先生が「"学校"とは何なのだろう」という話をされていた。
先生曰く、学校とは
「ある一定のカリキュラムを、特定の年齢集団に対して組織的・集団的に教える場」
であって、そこにある要素は、第1にカリキュラム、第2に教師と生徒、
そして第3に、社会的義務(期待)なんじゃないかと。
そう考えると、フリースクールの「フリー」っていうのは
この3番目の要素、つまり
「学校が生徒に教えるべきこととして社会から期待されるもの」
からのフリーなのではないかとおっしゃっていた。
そしてその話を聞きながら、それはまさしくあれじゃないか、
フィンランド教育でいうところの「構成主義」に通じるものじゃないか
とか思った。
フィンランドでは、教育の概念は、
客観主義から構成主義へと発展すると考えられている。
客観主義とは、
「知識や法則というのは客観的なものであり、
物事の真偽は人間の意識にかかわりなく決定されている」
と考える立場である。
よって学習の目標は、「体系化された客観的な知識を覚えること」となる。
日本の学校教育はこの立場だと考えていいと思う。
対して構成主義とは、
「知識というものは何らかの目的・価値観が前提となって構成されるのだ」
と考える立場である。
知識とは、目的に応じて事実から切り取られ、構成されるものであり、
学校で何をテーマにどこまで学ぶかは、
教師と子どもたちとの共同作業で決められていく。
だからフィンランドには、国が知識を管理するという発想がなく、
教科書もひとつの教材でしかないので、検閲もない。
正確にはフィンランドの教育がとる立場は構成主義ではなくて、
「社会構成主義」だという。
これは、構成主義の「構成」は、社会的な脈絡、
すなわち人間関係や社会との関係の中で起きるものであり、
学習の質は「協同」という活動によって大きく左右されると考える立場である。
学ぶべき知識の「構成」は一人で起こすものではない。
それゆえフィンランドの教育改革は、習熟度別編成から
異質集団方式への転換の道をたどったのだと考えると合点がいく。
ちょうどguri_2さんが
「今の小学校では調べ物学習をさせられない」という話をされているが、
ここでいわれている班単位での調べ物学習っていうのは
まさしく社会構成主義的な学習だといえる。
この記事にある、無気力な小学生が多くて調べ物学習ができないっていう現象が
もし日本全体で見られる傾向だとしたら、
日本の教育は本当にフィンランドとは真逆へ進んでいるといえる。
さて今ふたたび、先程のあまのじゃく生徒の問題を考えてみたい。
客観主義の立場からいえば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪い行為だ」という倫理観は
絶対的に正しい事実として初めから存在しているので、
ただそれを子どもに教えてやればよい。
しかし、社会構成主義の立場で考えると、そのような倫理観は絶対的なものではなく、
個人的・主観的なひとつの考え方でしかないということになる。
したがってそれを教師が生徒に強要することには何の意味もなく、
そのような知識は、生徒自らが他の人間との関係性のなかで構成すべきだ
ということになるのである。
実際フィンランドでは、教師が生徒に注意することは極めて少ないという。
授業中に立って歩いたり、ソファーで休んだりしている生徒が普通にいる。
その行為が他人の邪魔になるときだけ注意するのだそうだ。
ではどのように注意するのか、ひとつの例をあげると、
たとえば授業中におしゃべりをする生徒に対しては、
なぜおしゃべりをするのか、その説明を生徒に求め、他の生徒にも意見を求める。
その上で、その行為が今行うものとしてふさわしいかどうかという判断を
最終的には生徒に委ねるのだという。
そうすることで、「なぜ自分が注意されるのかわからない」
という状況だけは避けるようにしているのだ。
さて以上から、日本的な教育の立場にたてば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。それが唯一の真実である。
(少なくとも、社会的に期待された価値観である)」
と教えればよいということになる。
社会構成主義の立場にたつならば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。私はそう考える。
あなたの隣の生徒もそのように考えている。
さて、あなたはどう思うか?」
ということになるだろうか。
少なくとも公教育において強要すべき価値観ではないから、
結局は生徒がどう考えようが自由、ということになる。
「なんだかフィンランドの教育って人間味がないなぁ」
ってことになりそうな気がしたので、一応補足。
重要なのは、フィンランド人にとって、
学校とはあくまでも「勉強」をする場所であって、
しつけや道徳を教わる場所ではないということである。
ではそれらは学校でなくてどこで教わるのかというと、
いうまでもなく、家庭である。
フィンランドの教育は、しっかりとした家庭生活の上に成り立っているのである。
それは教師であっても例外ではない。
法定勤務時間に占める実際の授業時間の割合を比べると、
日本の中学校教師では勤務時間の2割半が授業時間であるのに対し、
フィンランドでは勤務時間の6割が授業の時間に当てられている。
教師の授業以外の負担は最小限にとどめられているのである。
さて、ここからようやく冒頭の問題に対する自分の考えになるわけです。
やっぱりポイントは「他人の迷惑」っていう部分じゃないかと。
いわゆる公共の福祉。
自分のある行為について、
仮に他人がどうしてそれを嫌がるのかがわからなくても、
「嫌がる人がいるのならやめましょう」
って言われて納得することはできるんじゃないかと思う。
廊下で吐いたことをからかわれたら悲しい。
被害者の立場にたって考えた結果その気持ちに共感できるなら話は早いけど、
常にそこを目指すっていうのはやっぱり難しいんじゃないだろうか。
逆に、いろんな文化にいろんな考え方の人がいて、
それぞれ違うんだけどもうまくやっていくことはできるんだ
ってことを学ぶのも、それはそれで大事なことだと思う。
そして他人の迷惑にならないことであれば
いろんな考え方を認めてあげればいいんじゃないかと思うんだけど、
そうはいっても学校教師として働くとしたら
校則違反を注意しないわけにはいかないよなぁ。
「なんで制服のボタンを外しちゃいけないの?」
っていう問いに答えるのは難しい。
校則といえば、高校のとき、学校祭かなんかのクラスの打ち上げで
夜遅くに公園で花火をはじめようとしたら
おまわりさんがやってきて、
「校則違反じゃないのか!」って注意されたのは
なんというか、不思議な体験でした。
参考文献:
『競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功』(朝日選書)
『受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋)
したり顔でふぃんらんど・めそっどを語ったら
なんか不服申立てされたので、ちゃんと記事書きます。
テーマは、生徒が悪いことを悪いと思わない場合どうするの?ってこと。
つまり、「なんで謝んなきゃいけないの?」って言われたときに、
「自分が同じことされたら嫌でしょ?」って言っても、
そういう気持ちにならない子に対してはそれは意味のない言葉で、
だけどそういうルールを教えないわけにはいかないし・・・っていう話。
ちょっと小学校のときの体験を思い出したのでまずその話から。
小学3年のとき、クラスの女の子が廊下で嘔吐しちゃって、
それを同じクラスの悪ガキがからかったことがあった。
当時流行ってたWE ARE THE CHAMPのメロディで
「オ~エ~オエオエオエ~」っていう替え歌作って。
それを後で先生が叱ったんだけど、やはりというか、
「○○くんもそういうことされたら嫌でしょ?」って咎めた。
そしたら○○くんは「別に。楽しいじゃん」みたいに答えた。
そのとき、最終的にその先生は
「じゃあ○○くんはあまのじゃくなんだね。みんなと違って」
っていう言い方をしてた。
そのときのことは、確かに自分の中でちょっとひっかかってた。
学校の教師として、こういうときにどういう指導をするべきなんだろうか。
やはり「吐いた人をからかっちゃだめだよ」っていうことを教えるべきなのだろうけど、
「なんで?」ってなったら、なんでなのだろう。
ちょうど先日の教育人間塾で、フリースクールについて考えるとき、
村山先生が「"学校"とは何なのだろう」という話をされていた。
先生曰く、学校とは
「ある一定のカリキュラムを、特定の年齢集団に対して組織的・集団的に教える場」
であって、そこにある要素は、第1にカリキュラム、第2に教師と生徒、
そして第3に、社会的義務(期待)なんじゃないかと。
そう考えると、フリースクールの「フリー」っていうのは
この3番目の要素、つまり
「学校が生徒に教えるべきこととして社会から期待されるもの」
からのフリーなのではないかとおっしゃっていた。
そしてその話を聞きながら、それはまさしくあれじゃないか、
フィンランド教育でいうところの「構成主義」に通じるものじゃないか
とか思った。
フィンランドでは、教育の概念は、
客観主義から構成主義へと発展すると考えられている。
客観主義とは、
「知識や法則というのは客観的なものであり、
物事の真偽は人間の意識にかかわりなく決定されている」
と考える立場である。
よって学習の目標は、「体系化された客観的な知識を覚えること」となる。
日本の学校教育はこの立場だと考えていいと思う。
対して構成主義とは、
「知識というものは何らかの目的・価値観が前提となって構成されるのだ」
と考える立場である。
知識とは、目的に応じて事実から切り取られ、構成されるものであり、
学校で何をテーマにどこまで学ぶかは、
教師と子どもたちとの共同作業で決められていく。
だからフィンランドには、国が知識を管理するという発想がなく、
教科書もひとつの教材でしかないので、検閲もない。
正確にはフィンランドの教育がとる立場は構成主義ではなくて、
「社会構成主義」だという。
これは、構成主義の「構成」は、社会的な脈絡、
すなわち人間関係や社会との関係の中で起きるものであり、
学習の質は「協同」という活動によって大きく左右されると考える立場である。
学ぶべき知識の「構成」は一人で起こすものではない。
それゆえフィンランドの教育改革は、習熟度別編成から
異質集団方式への転換の道をたどったのだと考えると合点がいく。
ちょうどguri_2さんが
「今の小学校では調べ物学習をさせられない」という話をされているが、
ここでいわれている班単位での調べ物学習っていうのは
まさしく社会構成主義的な学習だといえる。
この記事にある、無気力な小学生が多くて調べ物学習ができないっていう現象が
もし日本全体で見られる傾向だとしたら、
日本の教育は本当にフィンランドとは真逆へ進んでいるといえる。
さて今ふたたび、先程のあまのじゃく生徒の問題を考えてみたい。
客観主義の立場からいえば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪い行為だ」という倫理観は
絶対的に正しい事実として初めから存在しているので、
ただそれを子どもに教えてやればよい。
しかし、社会構成主義の立場で考えると、そのような倫理観は絶対的なものではなく、
個人的・主観的なひとつの考え方でしかないということになる。
したがってそれを教師が生徒に強要することには何の意味もなく、
そのような知識は、生徒自らが他の人間との関係性のなかで構成すべきだ
ということになるのである。
実際フィンランドでは、教師が生徒に注意することは極めて少ないという。
授業中に立って歩いたり、ソファーで休んだりしている生徒が普通にいる。
その行為が他人の邪魔になるときだけ注意するのだそうだ。
ではどのように注意するのか、ひとつの例をあげると、
たとえば授業中におしゃべりをする生徒に対しては、
なぜおしゃべりをするのか、その説明を生徒に求め、他の生徒にも意見を求める。
その上で、その行為が今行うものとしてふさわしいかどうかという判断を
最終的には生徒に委ねるのだという。
そうすることで、「なぜ自分が注意されるのかわからない」
という状況だけは避けるようにしているのだ。
さて以上から、日本的な教育の立場にたてば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。それが唯一の真実である。
(少なくとも、社会的に期待された価値観である)」
と教えればよいということになる。
社会構成主義の立場にたつならば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。私はそう考える。
あなたの隣の生徒もそのように考えている。
さて、あなたはどう思うか?」
ということになるだろうか。
少なくとも公教育において強要すべき価値観ではないから、
結局は生徒がどう考えようが自由、ということになる。
「なんだかフィンランドの教育って人間味がないなぁ」
ってことになりそうな気がしたので、一応補足。
重要なのは、フィンランド人にとって、
学校とはあくまでも「勉強」をする場所であって、
しつけや道徳を教わる場所ではないということである。
ではそれらは学校でなくてどこで教わるのかというと、
いうまでもなく、家庭である。
フィンランドの教育は、しっかりとした家庭生活の上に成り立っているのである。
それは教師であっても例外ではない。
法定勤務時間に占める実際の授業時間の割合を比べると、
日本の中学校教師では勤務時間の2割半が授業時間であるのに対し、
フィンランドでは勤務時間の6割が授業の時間に当てられている。
教師の授業以外の負担は最小限にとどめられているのである。
さて、ここからようやく冒頭の問題に対する自分の考えになるわけです。
やっぱりポイントは「他人の迷惑」っていう部分じゃないかと。
いわゆる公共の福祉。
自分のある行為について、
仮に他人がどうしてそれを嫌がるのかがわからなくても、
「嫌がる人がいるのならやめましょう」
って言われて納得することはできるんじゃないかと思う。
廊下で吐いたことをからかわれたら悲しい。
被害者の立場にたって考えた結果その気持ちに共感できるなら話は早いけど、
常にそこを目指すっていうのはやっぱり難しいんじゃないだろうか。
逆に、いろんな文化にいろんな考え方の人がいて、
それぞれ違うんだけどもうまくやっていくことはできるんだ
ってことを学ぶのも、それはそれで大事なことだと思う。
そして他人の迷惑にならないことであれば
いろんな考え方を認めてあげればいいんじゃないかと思うんだけど、
そうはいっても学校教師として働くとしたら
校則違反を注意しないわけにはいかないよなぁ。
「なんで制服のボタンを外しちゃいけないの?」
っていう問いに答えるのは難しい。
校則といえば、高校のとき、学校祭かなんかのクラスの打ち上げで
夜遅くに公園で花火をはじめようとしたら
おまわりさんがやってきて、
「校則違反じゃないのか!」って注意されたのは
なんというか、不思議な体験でした。
参考文献:
『競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功』(朝日選書)
『受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋)
2008.08.11 (Mon)
すっかりごぶさたになってました。教育人間塾まとめ。
今回は、学問のすすめ第3編、「国家の独立」について。
初編で福沢は、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
だから自由平等だよーと言っている。
人は万人皆同じ位で生まれながら上下の別なく自由自在うんぬんと。
第2編ではさらに、人というのは皆「天地の間の造物」で
人と人との釣合は「同等と言わざるを得ない」と言っている。
地頭と百姓とでは「有様」は違うけれど、権利は違わない。
百姓の身に痛いことは地頭の身にも痛いし、
地頭の口に甘いものは百姓の口にも甘いだろうと。
有様の違いで他の権利を害するのは
力士が我に力ありと隣人の腕をひねり折るようなもので、
隣人にすれば、力士よりも力が弱いという理由で
いわれなく腕を折られるのは迷惑至極だと。
そらぁそうだ。
福沢はこれを人民と政府の関係にも当てはめる。
強弱の有様は違っても、権利は対等であるべきだと。
百姓は米を作り、町人は者を売買して世の便利を達する。
一方の政府は法令で悪人を制し善人を保護する。
そのための費用を年貢でまかなう。
これを、人民と政府の「約束」と言っている。
ここでのポイントは、国民は人民としての「働き」(=私立の活計)をすることで
はじめて国と対等になれるということ。
この「働き」がないと、国の威光を恐れてへつらうことになってしまう。
次に福沢は国家と国家の間の関係性についての話をしている。
ここが第3編になる。
はじめに福沢は、国家とは人の集まりなのだという話をしている。
そして、1人の人が1人の人に害を加える道理がないのだから、
100万人が100万人に対して害を加える道理もないのだと説く。
富強な国と貧しい国とで有様の違うことをもって
富強な国が貧弱な国に危害を加えるのは
力士が病人の腕をへし折るようなことだと。
そして、国とは人の集まりなのだから、
国の独立とは、国民が独立するということだと。
これが「一身独立して一国独立」である。
「独立」とは、他人の心に依存しないことであり、
他人の知恵に依らないことであり、
また、他人の財に依らないことである。
福沢曰く、
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、
人に依頼する者は必ず人を恐る、
人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。
国民に独立の心がないとどうなるか。
1. 国民が国のことをわが身に引き受けようと思わず、
国のことを憂い、国のために尽くすことがなくなる。
2. 国の中で独立できないものは、外国人に対してもまた
独立の権義をもつことができない。
3. 政府を恐れて訴えをおこせない者は
他人に依頼して悪事をなすかも?
よって、国を愛すなら、まずは自己の独立をはかり、
余力があれば他人の独立を助けるべし、ということだ。
人を束縛して独り心配を求めるより、
人を放ちて共に苦楽をともにするべし。
素晴らしい言葉である。
この日の話を聞いているときに考えていたのは、
「独立」には精神的な独立も経済的な独立も含まれるということだが、
経済的な独立、つまり衣食住を確保していくことと、
精神的な独立として、自尊心を持って生きることとは
現実には対立する場面があるだろうなということ。
例えば、会社で上司に、違法行為などを指示されたとき、
自分の意志には反するが、逆らえば職を失うというような場面で
選択を迫られる機会がきっと誰にでもやってくる。
まず生きていくためには経済的独立がなくてはならないから
つべこべ言わずに働いてお金を稼ぐ必要があるんだけど、
かといって、前にも出てきたように、
衣食住を確保するだけなら「蟻」と変わらない。
そこで何を第一に優先して生きるかというのは
けっこう深い人生のテーマであるかもしれない。
漫画家の福本伸行氏は、前にテレビで
男にとっては「命よりも自分が大事だ」とおっしゃっていた。
友達が不良に絡まれているとき、
命を大事にするなら見て見ぬふりをすべきだが、
自分を大事にすべきなら助けに行くべきだと。
人は皆、そういう場面で助けに行けなかったりして
「むむむ」という思いをしながら生きていくんだけど、
その「むむむ」を感じなくなったら、人として問題だよね
みたいなことを話されていたと思う。
そういえば中学のときのある先生は、
「カツアゲにあったら迷わず逃げろ」と言っていた。
それよりちょっと前の時代には
「負けてもいいから立ち向かってみろ!」
みたいな指導のほうが格好良しとされてたんじゃなかろうか。
実際にそう言われたことがあるわけじゃないのでわからないが。
ただ、子ども同士でもナイフで刺されるような事件が目立つようになってきて、
教師も軽々しくそういうことを言えなくなってきた。
最近では、「レイプされそうになったらさせなさい」の覚悟という話を読んで、
こういう愛の形もあるのだと感動した。
しかし教育者として子どもたちに何をどうやって語っていくかというのは
本当に難しい問題だなぁと感じる。
「教育人間塾」その他の記事
今回は、学問のすすめ第3編、「国家の独立」について。
初編で福沢は、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
だから自由平等だよーと言っている。
人は万人皆同じ位で生まれながら上下の別なく自由自在うんぬんと。
第2編ではさらに、人というのは皆「天地の間の造物」で
人と人との釣合は「同等と言わざるを得ない」と言っている。
地頭と百姓とでは「有様」は違うけれど、権利は違わない。
百姓の身に痛いことは地頭の身にも痛いし、
地頭の口に甘いものは百姓の口にも甘いだろうと。
有様の違いで他の権利を害するのは
力士が我に力ありと隣人の腕をひねり折るようなもので、
隣人にすれば、力士よりも力が弱いという理由で
いわれなく腕を折られるのは迷惑至極だと。
そらぁそうだ。
福沢はこれを人民と政府の関係にも当てはめる。
強弱の有様は違っても、権利は対等であるべきだと。
百姓は米を作り、町人は者を売買して世の便利を達する。
一方の政府は法令で悪人を制し善人を保護する。
そのための費用を年貢でまかなう。
これを、人民と政府の「約束」と言っている。
ここでのポイントは、国民は人民としての「働き」(=私立の活計)をすることで
はじめて国と対等になれるということ。
この「働き」がないと、国の威光を恐れてへつらうことになってしまう。
次に福沢は国家と国家の間の関係性についての話をしている。
ここが第3編になる。
はじめに福沢は、国家とは人の集まりなのだという話をしている。
そして、1人の人が1人の人に害を加える道理がないのだから、
100万人が100万人に対して害を加える道理もないのだと説く。
富強な国と貧しい国とで有様の違うことをもって
富強な国が貧弱な国に危害を加えるのは
力士が病人の腕をへし折るようなことだと。
そして、国とは人の集まりなのだから、
国の独立とは、国民が独立するということだと。
これが「一身独立して一国独立」である。
「独立」とは、他人の心に依存しないことであり、
他人の知恵に依らないことであり、
また、他人の財に依らないことである。
福沢曰く、
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、
人に依頼する者は必ず人を恐る、
人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。
国民に独立の心がないとどうなるか。
1. 国民が国のことをわが身に引き受けようと思わず、
国のことを憂い、国のために尽くすことがなくなる。
2. 国の中で独立できないものは、外国人に対してもまた
独立の権義をもつことができない。
3. 政府を恐れて訴えをおこせない者は
他人に依頼して悪事をなすかも?
よって、国を愛すなら、まずは自己の独立をはかり、
余力があれば他人の独立を助けるべし、ということだ。
人を束縛して独り心配を求めるより、
人を放ちて共に苦楽をともにするべし。
素晴らしい言葉である。
この日の話を聞いているときに考えていたのは、
「独立」には精神的な独立も経済的な独立も含まれるということだが、
経済的な独立、つまり衣食住を確保していくことと、
精神的な独立として、自尊心を持って生きることとは
現実には対立する場面があるだろうなということ。
例えば、会社で上司に、違法行為などを指示されたとき、
自分の意志には反するが、逆らえば職を失うというような場面で
選択を迫られる機会がきっと誰にでもやってくる。
まず生きていくためには経済的独立がなくてはならないから
つべこべ言わずに働いてお金を稼ぐ必要があるんだけど、
かといって、前にも出てきたように、
衣食住を確保するだけなら「蟻」と変わらない。
そこで何を第一に優先して生きるかというのは
けっこう深い人生のテーマであるかもしれない。
漫画家の福本伸行氏は、前にテレビで
男にとっては「命よりも自分が大事だ」とおっしゃっていた。
友達が不良に絡まれているとき、
命を大事にするなら見て見ぬふりをすべきだが、
自分を大事にすべきなら助けに行くべきだと。
人は皆、そういう場面で助けに行けなかったりして
「むむむ」という思いをしながら生きていくんだけど、
その「むむむ」を感じなくなったら、人として問題だよね
みたいなことを話されていたと思う。
そういえば中学のときのある先生は、
「カツアゲにあったら迷わず逃げろ」と言っていた。
それよりちょっと前の時代には
「負けてもいいから立ち向かってみろ!」
みたいな指導のほうが格好良しとされてたんじゃなかろうか。
実際にそう言われたことがあるわけじゃないのでわからないが。
ただ、子ども同士でもナイフで刺されるような事件が目立つようになってきて、
教師も軽々しくそういうことを言えなくなってきた。
最近では、「レイプされそうになったらさせなさい」の覚悟という話を読んで、
こういう愛の形もあるのだと感動した。
しかし教育者として子どもたちに何をどうやって語っていくかというのは
本当に難しい問題だなぁと感じる。
「教育人間塾」その他の記事
2008.04.07 (Mon)
第3回教育人間塾は、福沢の人間論。
結論から言ってしまうと、「一身独立」と「交際」についてである。
福沢はまず、人を「身体」からとらえる。
人は皆、他人と離れた"一身"をもっていて、自らの心身の働きを起こしている、と。
これが「一身独立」。
(ちなみに「自ら」はもともと「身ずから(躬ずから)」と書いたらしい。なるほどー)
人間は他の動物と同じ自然の生き物であって、
誰でも蚊に刺されたらかゆい、棒でぶたれたら痛い。
皆対等なのだよ、と。
そして、心と身体は1つであり、自分の「かゆい」「痛い」は他人と取り替えられないのだから、
自分の身体は自分の心でもって制すべし。
Aさんの心でBさんの身体に命令しちゃならんし、
Bさんは自分の身体をAさんの心によって動かしちゃならん、と。
というわけで、人は皆一身独立して衣食住を確保すべし、と。
だけど、それだけで「独立の活計」とか「不羈独立」とかいって、えらそうにするなよ?
人が蒔いた種を何百倍にも育てあげるのは、人の力ではなくて自然の力だし、
衣食住の確保ができたところで、動物に劣らないというだけの話だ。
「万物の霊」たる人の目的は、「交際」にこそある、と。
広く人と交わり、世の益をなすべし、と。
こんな感じでしょうか。
個人的に興味深かったのは、近代の自由観は「身体の自由」と「移動の自由」からなるという話。
身体の自由に関しては、体罰やセクハラの問題に代表されるように、
他人の身体にふれることは重大な問題であるということ。
外国人は日本人よりも身体の接触に関して敏感だという話も挙げられていた
(これについては一度論文を書いたことがあるので、そのうち別エントリーで)。
移動の自由に関しては、まさにこれが制限されていたのが、
封建時代の身分制度であったと。
最近ちょうど参勤交代とかを生徒に教えていたので、なるほどと思った。
あとは、東西ドイツ分断も、結局「移動」を制限しきれなくなって崩壊したよねと。
さて、今後読み進めるときに、ちょっと気にかけておきたいポイントいくつか。
・「世の益をなすべし」って具体的にどういうこと?
・前回の「差図」って、Aさんの心でBさんの身体を動かすことじゃないの?
「一身独立」してる限りは、「差図」も不要ってことかな?
・「天は人の上に~」の"天"って何なの?"自然"とは違うの?(他の方より)
・福沢は「人は一身独立だ。但し、分限を越えない(他人の妨げをしない)限り」と言っているから、
これは既に「交際」があることを前提にしてるんじゃない?(他の方より)
今後も福沢の言動から目が離せない!
「教育人間塾」その他の記事
学問のすすめ (岩波文庫)
結論から言ってしまうと、「一身独立」と「交際」についてである。
福沢はまず、人を「身体」からとらえる。
人は皆、他人と離れた"一身"をもっていて、自らの心身の働きを起こしている、と。
これが「一身独立」。
(ちなみに「自ら」はもともと「身ずから(躬ずから)」と書いたらしい。なるほどー)
人間は他の動物と同じ自然の生き物であって、
誰でも蚊に刺されたらかゆい、棒でぶたれたら痛い。
皆対等なのだよ、と。
そして、心と身体は1つであり、自分の「かゆい」「痛い」は他人と取り替えられないのだから、
自分の身体は自分の心でもって制すべし。
Aさんの心でBさんの身体に命令しちゃならんし、
Bさんは自分の身体をAさんの心によって動かしちゃならん、と。
というわけで、人は皆一身独立して衣食住を確保すべし、と。
だけど、それだけで「独立の活計」とか「不羈独立」とかいって、えらそうにするなよ?
人が蒔いた種を何百倍にも育てあげるのは、人の力ではなくて自然の力だし、
衣食住の確保ができたところで、動物に劣らないというだけの話だ。
「万物の霊」たる人の目的は、「交際」にこそある、と。
広く人と交わり、世の益をなすべし、と。
こんな感じでしょうか。
個人的に興味深かったのは、近代の自由観は「身体の自由」と「移動の自由」からなるという話。
身体の自由に関しては、体罰やセクハラの問題に代表されるように、
他人の身体にふれることは重大な問題であるということ。
外国人は日本人よりも身体の接触に関して敏感だという話も挙げられていた
(これについては一度論文を書いたことがあるので、そのうち別エントリーで)。
移動の自由に関しては、まさにこれが制限されていたのが、
封建時代の身分制度であったと。
最近ちょうど参勤交代とかを生徒に教えていたので、なるほどと思った。
あとは、東西ドイツ分断も、結局「移動」を制限しきれなくなって崩壊したよねと。
さて、今後読み進めるときに、ちょっと気にかけておきたいポイントいくつか。
・「世の益をなすべし」って具体的にどういうこと?
・前回の「差図」って、Aさんの心でBさんの身体を動かすことじゃないの?
「一身独立」してる限りは、「差図」も不要ってことかな?
・「天は人の上に~」の"天"って何なの?"自然"とは違うの?(他の方より)
・福沢は「人は一身独立だ。但し、分限を越えない(他人の妨げをしない)限り」と言っているから、
これは既に「交際」があることを前提にしてるんじゃない?(他の方より)
今後も福沢の言動から目が離せない!
「教育人間塾」その他の記事
学問のすすめ (岩波文庫)
2008.03.24 (Mon)
恐れ多くも先生からご期待いただいているようなので、
今回もまとめます、学問のすすめ@教育人間塾。
第2回は「世話の字の義」について。
福沢曰く、「世話」には2つの意味がある。
ひとつは「保護」、もうひとつは「命令」。
「保護」とは、人の傍について、財物を与えたり時間をかけたりして
その人の利益や面目を失わせないようにすること。
「命令」とは、その人のためになることを差図(指図)し、
その人のためにならないことに異見を加え、
心の丈を尽くして忠告すること。
おおかたどんな人間関係でも、世話をするか、世話をされるか、
あるいはその両方が含まれているものだ。
先生と生徒の関係然り。
親と子の関係然り。
国家と国民の関係然り。
「保護」と「差図」とは、ふたつながらその至るところを同じくすべし!
「保護」を求めるなら、「差図」も受け入れるべきである。
「一身独立」できずに、人から何らかの恩恵を受けているにもかかわらず、
「保護」のみを要求して「差図」するななどということはもってのほか!
また、人に「差図」をするのは、「保護」の届く範囲でなければならない。
「保護」もせずに「差図」だけをするのは、まさしく「大きなお世話」である。
逆に、「差図」もできずに「保護」だけを与えているのは、
5升の米をもらえば3升は酒にして飲んじゃうような者に、禁酒もさせずに米を与えるようなもので、
「大きにご苦労」である。
福沢のこのような考え方が、「名分をもって偽君子を生ずるの論」につながっている。
身分や権威の上にあぐらをかいているようなやつぁ「偽君子」だと。
大人と大人の付き合いは「他人」と「他人」の付き合いなのだから、
対等な規律があってしかるべき!
(とはいうけど、人の交際は「和して真率」なんだよなぁ。このへんが深い)
本題に戻りまして。
当日の議論では、今の社会は「保護」と「差図」のバランスが崩れていて、
「保護」ばかりを要求する人間が多い、というような話があった。
(クレーマー、モンスターペアレント etc.)
でも個人的には、それって相手の顔が見えづらくなってるだけだと思うんだよなぁ。
自分が誰からの「保護」を受けているかがわかりづらくなっていて、感謝の対象が見えにくい。
子どもも学校で権利ばかり主張するとかいうけれど、
家庭教師のように1対1で相手が見える状況では、
「差図」も受け入れてくれるし、ちゃんと感謝してくれてますよ、子どもは。
関連エントリー
教育人間塾:「人望のある人」とは
今回もまとめます、学問のすすめ@教育人間塾。
第2回は「世話の字の義」について。
福沢曰く、「世話」には2つの意味がある。
ひとつは「保護」、もうひとつは「命令」。
「保護」とは、人の傍について、財物を与えたり時間をかけたりして
その人の利益や面目を失わせないようにすること。
「命令」とは、その人のためになることを差図(指図)し、
その人のためにならないことに異見を加え、
心の丈を尽くして忠告すること。
おおかたどんな人間関係でも、世話をするか、世話をされるか、
あるいはその両方が含まれているものだ。
先生と生徒の関係然り。
親と子の関係然り。
国家と国民の関係然り。
「保護」と「差図」とは、ふたつながらその至るところを同じくすべし!
「保護」を求めるなら、「差図」も受け入れるべきである。
「一身独立」できずに、人から何らかの恩恵を受けているにもかかわらず、
「保護」のみを要求して「差図」するななどということはもってのほか!
また、人に「差図」をするのは、「保護」の届く範囲でなければならない。
「保護」もせずに「差図」だけをするのは、まさしく「大きなお世話」である。
逆に、「差図」もできずに「保護」だけを与えているのは、
5升の米をもらえば3升は酒にして飲んじゃうような者に、禁酒もさせずに米を与えるようなもので、
「大きにご苦労」である。
福沢のこのような考え方が、「名分をもって偽君子を生ずるの論」につながっている。
身分や権威の上にあぐらをかいているようなやつぁ「偽君子」だと。
大人と大人の付き合いは「他人」と「他人」の付き合いなのだから、
対等な規律があってしかるべき!
(とはいうけど、人の交際は「和して真率」なんだよなぁ。このへんが深い)
本題に戻りまして。
当日の議論では、今の社会は「保護」と「差図」のバランスが崩れていて、
「保護」ばかりを要求する人間が多い、というような話があった。
(クレーマー、モンスターペアレント etc.)
でも個人的には、それって相手の顔が見えづらくなってるだけだと思うんだよなぁ。
自分が誰からの「保護」を受けているかがわかりづらくなっていて、感謝の対象が見えにくい。
子どもも学校で権利ばかり主張するとかいうけれど、
家庭教師のように1対1で相手が見える状況では、
「差図」も受け入れてくれるし、ちゃんと感謝してくれてますよ、子どもは。
関連エントリー
教育人間塾:「人望のある人」とは
2008.03.09 (Sun)
7日からスタートした、「教育人間塾」に参加。
教育大の前学長村山氏の主催で、現役の校長やら、教員やら民間人やらで
福沢の「学問のすすめ」を読みながら、教育の本質について議論するアツい会だ。
第1回は「人望論」。
福沢曰く、「人望」のある人とは、人に当てにされる人であり、
「たしかなる人」(=しっかりした人)である、と。
その人望の中身は3つ。
一、言葉
・文章も大事だけど、人に会って自分の考えを伝えるにも、「言葉」以外にないよね。
・用いて不自由なき言葉を用いずして不自由するは、必竟演説を学ばざるの罪だよね。
ニ、顔色容貌
・人の顔色は家の門戸と同じ。君子きどりでことさら渋い風にするのは
戸の入り口に骸骨をぶら下げて、門の前に棺桶を置くようなものだ。
誰も近づかないよね。
・「虚飾」じゃないよ。「和して真率」が交際の要だよ。
三、交際
・学者と医者、町人と役人など、「立場が違えば知らん振り」はやめよう。
・旧友を忘れないだけでなく、新友を求めよう。
10人に会って1人の良き偶然に当たるなら、20人に会えば2人の良き偶然を得られるよ。
このことに関して、「交際の機会を増やすことで言葉も磨かれる」とおっしゃった人がいた。
交際の機会が減っているから言葉も失われると。
これにはすごく同意できる。
自分の場合、小さい頃は友達と遊ぶために友達の家に電話をかけるときというのが、
幼い自分が「他人」である大人に自分から言葉を投げかけねばならなかった機会であり、
ある種のハードルであった。
「○○ですが、××くんいますか?」が原点。
それが成長するにつれ、
「○○と申しますが、××くんいらっしゃいますか?」
「△年□組の○○と申します。こんばんわ。××くんはいらっしゃいますか?」
と、進化を遂げていく。
「ヤブンすいません」
「オコトヅテお願いします」
と、覚えたての言葉を取り入れてみたりもする。
すると、その友人の家に行ったとき、お母様からの印象が良くなってたりする(笑)
携帯電話の普及によって、こういう機会が失われる。
子ども同士で直接連絡がとれるのは「便利」なんだけど、
「不便」の周辺にあった「交際」も一緒に失われてしまう。
というか、グラウンディングラボの都丸さんがすでにもっといいことをおっしゃっているので、
そちらを引用させていただきます。
100円 < お願い
福沢から学ぶこと、まだまだ多し。
教育大の前学長村山氏の主催で、現役の校長やら、教員やら民間人やらで
福沢の「学問のすすめ」を読みながら、教育の本質について議論するアツい会だ。
第1回は「人望論」。
福沢曰く、「人望」のある人とは、人に当てにされる人であり、
「たしかなる人」(=しっかりした人)である、と。
その人望の中身は3つ。
一、言葉
・文章も大事だけど、人に会って自分の考えを伝えるにも、「言葉」以外にないよね。
・用いて不自由なき言葉を用いずして不自由するは、必竟演説を学ばざるの罪だよね。
ニ、顔色容貌
・人の顔色は家の門戸と同じ。君子きどりでことさら渋い風にするのは
戸の入り口に骸骨をぶら下げて、門の前に棺桶を置くようなものだ。
誰も近づかないよね。
・「虚飾」じゃないよ。「和して真率」が交際の要だよ。
三、交際
・学者と医者、町人と役人など、「立場が違えば知らん振り」はやめよう。
・旧友を忘れないだけでなく、新友を求めよう。
10人に会って1人の良き偶然に当たるなら、20人に会えば2人の良き偶然を得られるよ。
このことに関して、「交際の機会を増やすことで言葉も磨かれる」とおっしゃった人がいた。
交際の機会が減っているから言葉も失われると。
これにはすごく同意できる。
自分の場合、小さい頃は友達と遊ぶために友達の家に電話をかけるときというのが、
幼い自分が「他人」である大人に自分から言葉を投げかけねばならなかった機会であり、
ある種のハードルであった。
「○○ですが、××くんいますか?」が原点。
それが成長するにつれ、
「○○と申しますが、××くんいらっしゃいますか?」
「△年□組の○○と申します。こんばんわ。××くんはいらっしゃいますか?」
と、進化を遂げていく。
「ヤブンすいません」
「オコトヅテお願いします」
と、覚えたての言葉を取り入れてみたりもする。
すると、その友人の家に行ったとき、お母様からの印象が良くなってたりする(笑)
携帯電話の普及によって、こういう機会が失われる。
子ども同士で直接連絡がとれるのは「便利」なんだけど、
「不便」の周辺にあった「交際」も一緒に失われてしまう。
というか、グラウンディングラボの都丸さんがすでにもっといいことをおっしゃっているので、
そちらを引用させていただきます。
100円 < お願い
地域のお祭りをやる意義って、地域の人同士がお願いをし合って、お礼を言い合って、日常で挨拶をするようになることだと思う。だけど、モノが豊かな現代は100円ショップがお願いする機会を奪ってしまっている。ハサミ、ガムテープ、ビニールヒモ、菜ばしetc...ちょっとしたものをお願いして借りるよりも、100円で買って捨ててしまったほうが気が楽なのだ。
モノを貸し借りすることを通じて、流通していた有難うというやり取りが少なくなっているんだなぁと実感。
福沢から学ぶこと、まだまだ多し。