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モンスターペアレントはいなかった  
2010.03.09 (Tue)
振り返って考えてみて、
ついにモンスターに出会うことはなかったなーと思った。

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edit |  21:53 |  家庭教師業界話  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
芸に身を食わせないと芸は身を助けない  
2010.03.08 (Mon)
「身を食う芸が身を助く」
解釈を勘違いしていたかもなぁと思い至った。


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edit |  22:34 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(2) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
往生ぎわ良く死にましょう―[書評]椿山課長の七日間  
2009.09.06 (Sun)
小説家の経営術』によると、
ビジネス書が"how to do"を学ぶものだとするならば、
小説は"how to be"を学ぶものだということであるが、
その意味でいうと、本書『椿山課長の七日間』は
実に学ぶべきところ多き小説であった。

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edit |  23:58 |  その他雑談  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
美味しいときに「おいしい」と言うな―コメント力  
2009.06.09 (Tue)
質問力―話し上手はここがちがう』に続き、
齋藤孝氏の『コメント力―「できる人」はここがちがう』を読む。

ちなみに出版されたのも、この順。
齋藤氏によれば、質問する力も「コメント力」の一部であるとのこと。


本書は「どうすれば良いコメントができるか?」という問いに対する答えを
期待して読む本ではないかもしれない。

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edit |  21:43 |  その他雑談  | トラックバック(1) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
ぴとぅるぴき、むーるぴき  
2009.06.04 (Thu)
平田大一さんが言っていた「ぴとぅるぴき、むーるぴき」という言葉を思い出した。
不覚にもこんな動画で・・・。


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edit |  23:32 |  その他雑談  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
奥芝商店のスープカレーとそれを作ることの覚悟というもの  
2009.05.11 (Mon)
週末、奥芝商店でスープカレーを食す。


食いかけ画像。


人気のエビスープでチキンのカレー。
辛さは卯月(4番目)、アボカドをトッピング。

なるほどこいつぁてぇしたもんだ。確かにエビだ。
エビのスープがカレーのスパイスにこんなに合うとは全く盲点。
まいりましたっ。


奥芝商店というこの店の存在を知ったのは先月のこと。

札幌で行われた、てんつくマンの講演会に足を運んだとき、
てんつくマンに先立って短い講演をされていたのが
社長の奥芝洋介その人であったのだ。

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「実りある退屈」という感覚  
2009.04.19 (Sun)
齋藤孝氏の『理想の国語教科書』にて、
ラッセル『幸福論』より「退屈と興奮」の抜粋を読む。
うーん、改めて考えさせられるものがある。

ラッセルは言う。退屈には二種類あると。

一つは、実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。実を結ばせる種類は、麻薬のないことから生じ、人を無気力にする種類は、生き生きとした活動のないことから生じる。


この前者について、麻薬やそれに似た興奮が多すぎることの問題を、
以下のように表す。

多すぎる興奮は、健康をむしばむばかりではない、あらゆる種類の快楽に対する味覚をにぶらせ、深い全身的な満足をくすぐりで置き換え、英知を小利口さで、美をどぎつい驚きで置き換えてしまう。


そして、
「退屈に耐える力をある程度持っていることは、
 幸福な生活にとって不可欠であり、
 若い人たちに教えるべき事柄の一つである」
と結論づける。


さらに、
「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、
 古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた」

という表現。
これは真理ではないか。

特に後者について、
「偉大な事業は、粘り強い仕事なしに達成されるものではない」
というのには説得力がある。


齋藤孝氏は、以下のようなコメントを添えている。

同じ作業を毎日繰り返すことによって、掘られる井戸は深くなり、後で湧き出す泉は豊かになる。ラッセルの「実りある退屈」という考え方は、私たちの生活を捉え直すための決定的なキーポイントだ。退屈さを恐れるあまり、興奮に走れば、より退屈が怖くなる。「実りある退屈」という感覚を幼いときから技とすることによって、生き方はまったく変わってくる。



「実りある退屈」という感覚を幼いときから覚えさせる。
うーん、難しいことですねぇ。

なんせ、現代の生活は刺激に満ち溢れている。

多くの家の子どもは、絶えず小刻みに刺激を提示してくれる
テレビやゲーム、携帯やPCと共に、退屈を感じることなく育つ。
勉強よりも楽しいもの、「くすぐ」ってくれるものが多いから
退屈な勉強のために時間を使うことを嫌がる。

本も映画も音楽も、退屈なものは売れないから、
「どぎつい驚き」によって刺激的なものに仕立て上げられる。


ただ、考えてみると、近年爆発的に増加した「プログラマ」という職業が
実りある退屈を積み重ねて大成する性格のものに感じられるのは興味深い。

10代の「天才プログラマ」なんかもちょくちょく出てくる。
そういう人は、小さい頃から既に「くすぐり」に甘んじることなく
「深い全身的な満足」を得るために時間を使うことを覚えているのだろう。

そう考えると安易に「いまどきの若いもんは・・・」なんて言えないかな。


とりあえずラッセル幸福論をちゃんと読みたい。



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edit |  23:31 |  その他雑談  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク