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googleストリートビューはそれをあれにするものかも  
2008.08.09 (Sat)
山岸先生の本の話がでているのでコメントを加えてみる。


安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している(アンカテ)

それと、おそらくアメリカでは「パブリック」であるということは「みんなのもの」ということになるのだけど、日本では「みんなのもの」と言う時には「コミュニティのもの」を意味していて、「パブリック」という言葉は「お上のもの」という風に理解されているのではないだろうか。つまり、日本にはコミュニティの外部にある「みんな」という概念がなくて、「パブリック」という概念を本当の意味では理解してないのである。




英語では、this - thatであるが、
日本語には「これ」「それ」「あれ」という3分類がある。

「これ」が近距離、「それ」が中距離、「あれ」は遠距離
というような説明をされることもあるが、実際はちょっと違う。




英語では自分の外にあるものは全て"that"で指し示すのに対し、
日本語では、相手の近くにあるものは「それ」、
2人から離れたところにあるものは「あれ」を使って指し示すのである。

このように、日本人の意識では、
共同体の中と外を明確に区別していると考えられる。
上のアンカテさんの記事でいえば、コミュニティは「それ」であって、
パブリックは「あれ」の範疇ということになるだろうか。

mixiがすごい勢いで広まった際によく耳にした、
「mixiは承認制だから安心。ブログは誰が見てるかわからない」
というような言葉がまさしく、このような意識の象徴であると思う。
mixiという「コミュニティ」の中は変な人のいない安心社会であって、
実名を出し、プライベートな内容の日記を書いても大丈夫という意識である。


しかし実際には、足あとだけを残していくような業者が大量に発生していたり、
飲酒運転したことを日記に書けば見知らぬ人からの非難の声が集中したり、
mixiというコミュニティに限って見ても、安心社会などとうに崩壊している。

もっといえば、現在の身のまわりの社会を考えてみたとき、
住人同士で挨拶すらしないようなマンションに住んでいて
相互監視システムの働くコミュニティなどそこにあるのか。

そういう意味では、ストリートビューによって
自分の「安心」できる空間がオープンにされることなどを心配するより、
既に「安心」などなくなりつつある社会にいながら
安心社会に身を置いていると思い込んでいることを心配すべきかもしれない。



参考:Google マップ ストリートビュー


関連エントリー:
 不必要に疑わない習慣をつける
 大人の醜さを憎む子ども心が社会を浄化していくけど、大人も子どもも悪いことはできなくなってきた

edit |  18:04 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
ええじゃないかと言い合える社会の夢を見る  
2008.06.28 (Sat)
へんな夢を見た。

友人と2人で、わりと繁盛している、中規模のラーメン屋に入る。
空いてる席を探して腰掛けたら、
前の人の食べ残しが置いてあったので、
店員に言って片付けてもらった。

ところが、実はその席の人はトイレに行っていただけで、
まだ食べている途中だったのだ!
戻ってきて、僕らを見て、怒るでもなく店を出てしまった。

うわーやっちゃった、と落ちこむ僕ら。

と、急にまわりの席の客が寄ってきて、
「ええじゃないか、ええじゃないか」
と言いながら踊りだすのである!

なぜか店を出て行った当の客まで
戻ってきて「ええじゃないか」と踊っている・・・。

それで自分がどうしたのかよく覚えていないが、
「よかった、ええじゃないかの人たちだ!」
と思ったような気がするw
そして目が覚めた。


まったくもって意味不明。
だけどそんな社会も素敵かもと思った。

誰かがヘマをやったときに、
知らない人もみんなで取り囲んで
「ええじゃないか」と言ってあげられる社会。


そんな夢を見ていたら、寝坊してその日の約束に遅刻。

「ごめーん!まあ、ええじゃないか!」
と言ったら、まあ怒られたね。
自分で言うことはできない言葉らしい。



関連エントリー:
 「応援してるよ」って言う。
 共同体意識
 異物を排除するような目 
edit |  10:54 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
ウザがられるフェーズ  
2008.05.26 (Mon)
自分と違うコミュニティの人の輪、
特に自分より年齢が下の人たちの輪に入っていこうと思ったら、
どうしたって「ウザがられるフェーズ」っていうのが初めにあって、
それを乗り越えなければならないんだろうなと、ふと思った。

建物の中でそうじしているおばちゃん、
屋台でたこ焼き売ってるおっちゃん、
学校でいえば教頭先生(笑)

もともと深く介入する必要のない人だから、
いきなりなれなれしく寄ってこられたら「なんだこいつ」ってなる。
それは当然の反応である。
現代を生きる我々はそういうコミュニケーションには慣れていないのである。

しかし、そのウザがられるフェーズを乗り越えたときに初めて
一定数の評判を得られるようになり、
「そうじの○○さん良い人だよね」
「あそこのたこ焼き屋の親父が面白くてさぁ」
って感じで
(うまくいけば)親しまれる存在となれるのだ。


若いうちはそれなりにちやほやしてもらえるからいいけど、
年をとっても若い人と付き合いをもっていこうと思ったら、
「若者の感性」以上にそういう度胸が必要になってくるのかもしれないですなぁ。


そんなこと考えてたら、小学校の先生に教わった、人間関係のシンプルなルール
guri_2さんが、「オレなんかにされても…」って思っちゃうよねってことを書かれてた。
オレなんかに話しかけられても迷惑だよなぁ…とか。

そういうときに、「やるのは、この自分」っていう要素を忘れちゃうっていうのも
なるほどなーと思ったけれど、もしそれでやってみてうまくいかなかったとしても、
「今はまだウザがられるフェーズにいるだけだ」
って思うようにしてへこたれないぜっていうのも手かなと。


 参考
小学校の先生に教わった、人間関係のシンプルなルール(Attribute=51)


edit |  20:12 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
経験に意味はあるのかい?  
2008.05.20 (Tue)
「勉強なんて何の役に立つの?」って生徒に聞かれたから
「行きたい大学に入るのに役立つじゃん」って言ったら
なんか妙に納得してた(笑)

でもこんなズルい回答では納得できない子が多いだろうなあ。


学校の勉強が生きていく上で役に立たないということは決してない。
勉強を頑張ることで頭のトレーニングになるっていうだけでなく、
学んだ内容が直接役に立つことだって決して少なくない。

でもそういうことは、今振り返ってみて言えることであって、
当時は何のために勉強するかなんてわかるわけないんだよなぁ。


リアルタイムで物事の意味なんてわからん。

ちょっと歳をとって言えば、若いもんは意味を求めすぎるきらいがあるわい。

経験の意味を考えるとしたら、人生の意味を考えねばなるまい。

なぁ。



 参考
やりたいからやる思考へ(五里夢中)

edit |  09:45 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
自己責任  
2008.05.20 (Tue)
超能力、超心理学、夢診断
マイナスイオン、デトックス
コラーゲン、コエンザイムQ10
手かざし、水からの伝言、胎教
アルファ波、ゲーム脳 etc.


何を信じるのも、何を試してみるのもいいと思うけど、
科学と疑似科学の区別ははっきりさせておきたい。

そして科学的根拠のないものは、基本的にat your own risk.

何でも言われるがまま言説に踊らされて
期待通りの結果が得られなかったときに
話が違うだの、説明責任だのと騒ぎ立てるのは
消費者レベルとしては底辺だと思う。


日本って、自己責任の精神を育てるような基盤はないよなーと思う。
いや、外国がどうなのかってことは知らないけど。

親からも、学校の先生からも、
「やめなさい!」
「しちゃいけません!」
って言われることはいくらでもあるけど、
「自己責任で!」って言われることはないよなぁ・・・。

自己責任意識を育てる教育って、どんなのだろう。


edit |  09:25 |  我思う  | トラックバック(1) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
新人に仕事を教えるときに意識すべき3つのこと  
2008.05.05 (Mon)
最近、ちょっと新しい環境で仕事をする機会があって、
全然知らない仕事を一から教わるという、最近あまりなかった経験をした。

そのなかで、この人から仕事を教わるとわかりやすいなぁっていう人が何人かいて、
その人の教え方の何が素晴らしいのかを分析してみた。

それは、次の3つのことを意識して言ってくれることだと思った。
「なぜそのようにやるのか」
「それをしないと、どう困るのか」
「これまでにどういう経緯があってそうするようになったか」
という3つ。

「AはBというように処理せよ」っていうことを知っているだけでは、
A’の事態に対応することができない。
その都度聞きにいかなくてはならなくなる。

「AはBというように処理せよ」と教わるときに、
「こうやんないとCっていう問題が起きて困るんだよ」とか、
「今までにB’というやり方でもやってみたんだけど、それだとDっていう問題がね」
っていう話を合わせてしてもらえると、
A’の事態に遭遇したときに、知っていることを応用して自分で対処法を考えられる。


いやーこういうことを考えてみると、本当に勉強の指導と同じだなーって思う。
本質を理解することで応用ができるっていうさ。
そういう話でした。


関連エントリー:
 コンビニのアルバイトから学んだこと
 エラーのない仕事の請け方・頼み方

edit |  23:56 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク
悪者を排除しようとすることほど非建設的なことはない  
2008.04.18 (Fri)
ドラえもんの中で、なぜだかよく思い出してしまう話がある。

それは「のび太は独裁者?!」という話。

この話では、「独裁スイッチ」という道具が出てくる。
嫌いな人の存在を簡単に消してしまうことができるという道具だ。

のび太はまず、ジャイアンにいじめられてこの道具を使ってしまう。
ところがジャイアンのいない世界では、代わりにスネ夫がのび太をいじめる。
次にのび太はスネ夫を消してしまう。
しかし、スネ夫のいない世界でもやはりのび太をいじめるものはいて、
最終的にのび太は「誰もかれも消えちゃえ!」と言って
このスイッチを押してしまい……という話。

ずいぶん昔に見たものを未だに覚えてるくらいだから
子ども心によほど衝撃的だったのだろう…。


身近に気にいらない人がいるときには、ついつい排除したくなってしまう。
人間だもの。

けれども、実際にその人がいなくなったとしても、
結局今度は別の人が目につくようになるものだ。
ドラえもんからだけでなく、経験からもずいぶん学んだ。


実際、誰かを悪者にしておくと、すごい楽だ。

何か不都合があったときには全てその人のせいにしておけば
あれこれ問題を考える必要もないし、
その人を共通の敵にすることで、残りのメンバーの結びつきも強くなる。

そのときは、その「悪者」さえいなくなれば全てがうまくいくような錯覚に陥るが、
実際は全く逆で、その人がいるおかげで平穏が保たれていたりするのである。


人間関係に限った話ではなく、社会について考えるときも同じだ。

これまでの歴史の中でも何度も行われてきたことだが、
政府は、国民の反発を受けたくなかったら、怒りの矛先を用意してやればいい。
その矛先は他国だったり、自国の中の少数派の文化だったり、天変地異だったり、
国民の「外側」にあるものだったら何でも良い。

アメリカのコロンバイン高校で起きた銃乱射事件では、
犯人がマリリン・マンソンの音楽を好きだったことが問題となった。

映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で、
マンソンは、マイケル・ムーアに
「なぜ犯人があなたに心酔していたことが問題にされていると思うか」と質問されて、
「おれを悪者にすれば楽だからさ。」と答えていた。


最近であれば、インターネットや携帯電話が悪者だ。

我らが福田総理も、子どもが携帯電話を持つことについて
「ろくなことがない」とコメントしている。

福田首相は17日、政府の教育再生懇談会で、子どもが携帯電話を持つことについて「ろくなことがない。悪い大人に利用されるだけだ。人間関係にもマイナスだし、教育上も良くない」と、持論を展開した。
懇談会ではインターネット上の有害サイトの閲覧を制限する対策も議論されており、首相は「子どもを守るということに対し、もっと厳しい対応が大事」と指摘。委員からは「フィルタリング(閲覧制限)を義務化しないと徹底されない」との意見が出た。

  子どもの携帯所持、福田首相「ろくなことがない」(asahi.com)


携帯電話が犯罪に利用されることもある。
教育上よくないこともある。
それは確かだ。

では、携帯電話を排除すれば、子どもが悪い大人に利用されることはなくなり、
立派な子どもが育つ社会を作れるのか。
この点は十分に考える必要がある。

その点をふまえて、次の記事を読んでいただきたい。

 決してフィルタリングできない子供の中の最強の異物(アンカテ(Uncategorizable Blog))

親子の相克は時代を問わない普遍的なものだが、そのことの原因としやすい現象があるか無いかは時代によって違う。現代は、親が自分の生活感覚に合わない事象に取り巻かれていて、そこに原因を持っていきやすい。

携帯サイトが極端で一面的な形で報道されるから子供が心配になるのではなくて、子供が心配であるがその根源的な原因に直面したくないから、そこから逃げる為に他の理由を探しているのだ。その罠にピッタリはまってしまったのが、携帯サイトでありインターネットでありゲームなのだろう。

いつの時代にも親にとって子供は不気味なものなのだが、現代の親は、携帯サイトのせいにすることで、それを自分の責任として引き受けなくてもすむようになっているということだと私は思う。

子供から携帯サイトを取り上げたら、親は自分自身の生身で、理解できない不気味な子供と直面することになる。子供の中の最強の異物としての違和感を、いかなるフィルタリングソフトもフィルタリングしてはくれない。




子どもが「よくわからないけど危険そうな遊び」をしているとなれば
親として心配になるのは当然のことだと思うが、
必要なのは、遊び道具を取りあげることではなくて、
どんな道具でも安全に遊べる方法を身につけることなんじゃないかな。

っていうか、上記記事のほうがずっと良いこと言ってるので、
もひとつ引用して終わりにしてしまう。

無菌で育てれば子供は健康に育つという考えも間違いだが、家庭の中が無菌であって世界をフィルタリングすれば子供が無菌で育つという考えの方がもっと間違っている。世界の毒から子供を守るものは家族で、家族の毒から子供を守るものは世界だ。子供が健やかに育つためにはどちらも必要だと思う。




edit |  07:34 |  我思う  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑ | あとで読む このエントリーを含むはてなブックマーク