2007.07.05 (Thu)
内田樹氏のエントリー「若者はなぜうまく働けないのか?」より引用。
>労働を経済合理性の枠内でとらえると、労働者は自分の労働の成果に対して、「等価の」報酬が、「遅滞なく」、「固有名宛て」に給付されることを望む。
>学生たちが知っている「work」の経験はさしあたり受験勉強と就活だけであるが、それはまさに、努力に対する報酬(成績や合否採否)が(成績発表、内定通知の日に)「遅滞なく」、努力にふさわしい評価として、固有名宛てに届けられるシステムである。
>労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
>報酬はつねに集団によって共有される。
>個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
>個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
>だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
>これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。
>みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
>働くというのは「そういうこと」である。
>だが、社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。
>若い人たちは「やりがい」ということをよく口にする。
>「やりがいのある仕事」を求めて、たびたび転職したりする。
>この場合の「やりがい」ということばを年長者は「使命感」とか「社会貢献」ということと誤解しがちだが、当人たちはたいていの場合「受験勉強と同じ」という意味で使っている。
>つまり、自分の努力の成果が、まちがいなく自分宛に、適切な評価を受けてもどってくるような仕事のことである。
>残念ながら、ほとんどの仕事はそういうふうには構造化されていない。
>だから、彼らが最後にゆきつく「やりがいのある仕事」はミュージシャンとかアーティストとか作家とかいう「個人営業のクリエーター」系に固まってしまうのである。
なるほど。
つまり、受験にしても就職活動にしても、
基本的に自分のために頑張るのだ。
自分が合格したいから、自分が内定をもらいたいから頑張るのであって、
自分が頑張ったことによって他人が合格するのでは、喜べるわけがない。
高校のときの先生が、
「学校の勉強ほど努力が報われるものなんて社会に出たらないぞ」
と言っていたのを思い出した。
もっとも、学生としての活動の中に、
個人的努力の成果を集団で共有するような体験がないわけではない。
例えば、クラスでの文化祭への取り組みであり、
例えば、部活動でのチーム競技である。
そこで、考えてみた。
文化祭で、自分のクラスが表彰されたらうれしいか?
部活動で、自分のチームが優勝したらうれしいか?
うれしい。
なぜか?
それは、自集団への帰属意識があるからにほかならない。
要するに、「自分はこのチームの一員だ」という強い意識である。
そう考えると、
入社したばかりの新人である若者が仕事にやりがいを見出せないのも、
自分がその会社の一員であるという意識を持ちにくいためではないかと
考えることもできる。
ただ、その帰属意識というのも、
普通、帰属意識があるから頑張るのではなくて、
一丸となって頑張った結果として帰属意識が芽生えるんじゃないかと思う。
学校のクラスの場合を考えてみても、
文化祭への取り組みを通じてクラスの絆が深まることはよくある。
だから、クラスで、部活動で、集団への帰属意識を持つことで
集団の利益を喜ぶ体験をしてきた人は
仕事へのやりがいを見出しやすいのではないか。
反対に、「ケッ、やんてらんねーよ」スタンスで、
集団の利益を味わう体験をしてこなかった人は、
社会に出ても「ケッ、やってらんねーよ」なのではないか。
受験競争が過熱しすぎて、
合唱コンクール、球技大会などの行事が削減されたり、
毎日塾通いで、部活動をする時間もないような子が増えることは
このような面からいっても危惧されるべきだ。
参考
若者はなぜうまく働けないのか?(内田樹の研究室)
そろそろ内田樹についてひとこと言っておくか(猫型蓄音機)
札幌だけの家庭教師「考動力研究会」
>労働を経済合理性の枠内でとらえると、労働者は自分の労働の成果に対して、「等価の」報酬が、「遅滞なく」、「固有名宛て」に給付されることを望む。
>学生たちが知っている「work」の経験はさしあたり受験勉強と就活だけであるが、それはまさに、努力に対する報酬(成績や合否採否)が(成績発表、内定通知の日に)「遅滞なく」、努力にふさわしい評価として、固有名宛てに届けられるシステムである。
>労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
>報酬はつねに集団によって共有される。
>個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
>個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
>だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。
>これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。
>みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。
>働くというのは「そういうこと」である。
>だが、社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。
>若い人たちは「やりがい」ということをよく口にする。
>「やりがいのある仕事」を求めて、たびたび転職したりする。
>この場合の「やりがい」ということばを年長者は「使命感」とか「社会貢献」ということと誤解しがちだが、当人たちはたいていの場合「受験勉強と同じ」という意味で使っている。
>つまり、自分の努力の成果が、まちがいなく自分宛に、適切な評価を受けてもどってくるような仕事のことである。
>残念ながら、ほとんどの仕事はそういうふうには構造化されていない。
>だから、彼らが最後にゆきつく「やりがいのある仕事」はミュージシャンとかアーティストとか作家とかいう「個人営業のクリエーター」系に固まってしまうのである。
なるほど。
つまり、受験にしても就職活動にしても、
基本的に自分のために頑張るのだ。
自分が合格したいから、自分が内定をもらいたいから頑張るのであって、
自分が頑張ったことによって他人が合格するのでは、喜べるわけがない。
高校のときの先生が、
「学校の勉強ほど努力が報われるものなんて社会に出たらないぞ」
と言っていたのを思い出した。
もっとも、学生としての活動の中に、
個人的努力の成果を集団で共有するような体験がないわけではない。
例えば、クラスでの文化祭への取り組みであり、
例えば、部活動でのチーム競技である。
そこで、考えてみた。
文化祭で、自分のクラスが表彰されたらうれしいか?
部活動で、自分のチームが優勝したらうれしいか?
うれしい。
なぜか?
それは、自集団への帰属意識があるからにほかならない。
要するに、「自分はこのチームの一員だ」という強い意識である。
そう考えると、
入社したばかりの新人である若者が仕事にやりがいを見出せないのも、
自分がその会社の一員であるという意識を持ちにくいためではないかと
考えることもできる。
ただ、その帰属意識というのも、
普通、帰属意識があるから頑張るのではなくて、
一丸となって頑張った結果として帰属意識が芽生えるんじゃないかと思う。
学校のクラスの場合を考えてみても、
文化祭への取り組みを通じてクラスの絆が深まることはよくある。
だから、クラスで、部活動で、集団への帰属意識を持つことで
集団の利益を喜ぶ体験をしてきた人は
仕事へのやりがいを見出しやすいのではないか。
反対に、「ケッ、やんてらんねーよ」スタンスで、
集団の利益を味わう体験をしてこなかった人は、
社会に出ても「ケッ、やってらんねーよ」なのではないか。
受験競争が過熱しすぎて、
合唱コンクール、球技大会などの行事が削減されたり、
毎日塾通いで、部活動をする時間もないような子が増えることは
このような面からいっても危惧されるべきだ。
参考
若者はなぜうまく働けないのか?(内田樹の研究室)
そろそろ内田樹についてひとこと言っておくか(猫型蓄音機)
札幌だけの家庭教師「考動力研究会」
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