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「ごはんつぶを残すな。」  
2008.02.23 (Sat)
「茶碗にごはんつぶを残すな」と言われて育った。

親が古いタイプの人間であって良かったと感じるのはこのことくらいだ…。


同年代の友達を見ていても、茶碗が米粒だらけの状態で
平気で「ごちそうさま」と言う人間に昔から違和感を感じていた。
それは今現在でも続いている。

あとは最近でいえば、飲み会のときに大量に残される食べ物。
かなり気になる。
かといって、自分ひとりで何とかなる量でもないし、
食い意地がはってると思われるのもアレだし・・・なんて考えつつ
目の前の光景を正当化しようとしてしまう自分もいる。


食べ物をもったいないと思わなくなったのはなぜかを読んで考えたこと。

食べ物をもったいないと思わなくなったのはなぜか。

教育的側面から考えてみると、今の子どもは皆、
小さいときから食べ物が捨てられるシーンを見せられすぎてるんじゃないだろうか。

小学生の頃から、給食で大量の残飯がごっちゃまぜにされて、
捨てるために運ばれていくのを、きっとほぼ全員が見せられている。
そんな光景を見てしまえば、「ごはんつぶを残すな」なんてセリフは
あまりに無意味に思えて当然じゃなかろうか。

さらに高校生くらいになってアルバイトを始めると、
コンビニエンスストアではおにぎりやら弁当やら大量の廃棄商品を、
飲食店では客の大量の食べ残しが捨てられるのをまざまざと見せつけられる。

自分がコンビニでアルバイトをしていたときの経験からしても、
入ったばかりの新人アルバイターは、最初こそ
「うわー、もったいない…。捨てちゃうんですか」なんて言ってるものの、
1ヶ月も経つ頃には、すっかり手際よく廃棄処理できるようになってしまう。

テレビのバラエティ番組で食べ物をぞんざいに扱ってたときだけ
「食べ物を粗末にするな!」なんて抗議してみたところで、あまりに虚しい・・・。


あとは、生産体験・収穫体験の不在っていう理由も考えられるか。

家の畑で自分で育てた野菜を取って食べたり、
近所の川で釣ってきた魚を焼いて食べたり、
自分で育てた鶏やその卵を食べたり、なんて
都会の子どもの多くはほとんど体験できない。
子どもはっていうか、大人もだけど。

「魚は切り身で泳いでると思ってる」なんていうのは極端な例だけど、
食べ物を「実感」できないっていうのは確かだろうなぁと思う。


さてこういった点をふまえて、これからの教育の道について。

例えば子どもに野菜を作らせたり、鶏を飼わせたりっていう生産・収穫体験の補完は、
既にやっているところもけっこうある
(例として『豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日』とか)。

給食もなんとかならないだろうか。

あらかじめ生徒一人一人に自分の食べる量を申告させて
(ご飯○g、サラダ○gとか、親が協力して)、
それに基づいて各クラスに配給する量を決定するとか。

そしてやむなく残すときは、菜園の肥料にできるものは自分で撒きにいくとか、
あるいは代わりに食べてくれる人を自分で見つけなきゃいけないとか。

んー、難しいかなぁ。


関連エントリー:
 コンビニのアルバイトから学んだこと
 消費大国でゴミ大国
 道徳とは感動体験の異名である


 参考
食べ物をもったいないと思わなくなったのはなぜか(WIRED VISION)
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