それは「のび太は独裁者?!」という話。
この話では、「独裁スイッチ」という道具が出てくる。
嫌いな人の存在を簡単に消してしまうことができるという道具だ。
のび太はまず、ジャイアンにいじめられてこの道具を使ってしまう。
ところがジャイアンのいない世界では、代わりにスネ夫がのび太をいじめる。
次にのび太はスネ夫を消してしまう。
しかし、スネ夫のいない世界でもやはりのび太をいじめるものはいて、
最終的にのび太は「誰もかれも消えちゃえ!」と言って
このスイッチを押してしまい……という話。
ずいぶん昔に見たものを未だに覚えてるくらいだから
子ども心によほど衝撃的だったのだろう…。
身近に気にいらない人がいるときには、ついつい排除したくなってしまう。
人間だもの。
けれども、実際にその人がいなくなったとしても、
結局今度は別の人が目につくようになるものだ。
ドラえもんからだけでなく、経験からもずいぶん学んだ。
実際、誰かを悪者にしておくと、すごい楽だ。
何か不都合があったときには全てその人のせいにしておけば
あれこれ問題を考える必要もないし、
その人を共通の敵にすることで、残りのメンバーの結びつきも強くなる。
そのときは、その「悪者」さえいなくなれば全てがうまくいくような錯覚に陥るが、
実際は全く逆で、その人がいるおかげで平穏が保たれていたりするのである。
人間関係に限った話ではなく、社会について考えるときも同じだ。
これまでの歴史の中でも何度も行われてきたことだが、
政府は、国民の反発を受けたくなかったら、怒りの矛先を用意してやればいい。
その矛先は他国だったり、自国の中の少数派の文化だったり、天変地異だったり、
国民の「外側」にあるものだったら何でも良い。
アメリカのコロンバイン高校で起きた銃乱射事件では、
犯人がマリリン・マンソンの音楽を好きだったことが問題となった。
映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で、
マンソンは、マイケル・ムーアに
「なぜ犯人があなたに心酔していたことが問題にされていると思うか」と質問されて、
「おれを悪者にすれば楽だからさ。」と答えていた。
最近であれば、インターネットや携帯電話が悪者だ。
我らが福田総理も、子どもが携帯電話を持つことについて
「ろくなことがない」とコメントしている。
子どもの携帯所持、福田首相「ろくなことがない」(asahi.com)福田首相は17日、政府の教育再生懇談会で、子どもが携帯電話を持つことについて「ろくなことがない。悪い大人に利用されるだけだ。人間関係にもマイナスだし、教育上も良くない」と、持論を展開した。
懇談会ではインターネット上の有害サイトの閲覧を制限する対策も議論されており、首相は「子どもを守るということに対し、もっと厳しい対応が大事」と指摘。委員からは「フィルタリング(閲覧制限)を義務化しないと徹底されない」との意見が出た。
携帯電話が犯罪に利用されることもある。
教育上よくないこともある。
それは確かだ。
では、携帯電話を排除すれば、子どもが悪い大人に利用されることはなくなり、
立派な子どもが育つ社会を作れるのか。
この点は十分に考える必要がある。
その点をふまえて、次の記事を読んでいただきたい。
決してフィルタリングできない子供の中の最強の異物(アンカテ(Uncategorizable Blog))
親子の相克は時代を問わない普遍的なものだが、そのことの原因としやすい現象があるか無いかは時代によって違う。現代は、親が自分の生活感覚に合わない事象に取り巻かれていて、そこに原因を持っていきやすい。
携帯サイトが極端で一面的な形で報道されるから子供が心配になるのではなくて、子供が心配であるがその根源的な原因に直面したくないから、そこから逃げる為に他の理由を探しているのだ。その罠にピッタリはまってしまったのが、携帯サイトでありインターネットでありゲームなのだろう。
いつの時代にも親にとって子供は不気味なものなのだが、現代の親は、携帯サイトのせいにすることで、それを自分の責任として引き受けなくてもすむようになっているということだと私は思う。
子供から携帯サイトを取り上げたら、親は自分自身の生身で、理解できない不気味な子供と直面することになる。子供の中の最強の異物としての違和感を、いかなるフィルタリングソフトもフィルタリングしてはくれない。
子どもが「よくわからないけど危険そうな遊び」をしているとなれば
親として心配になるのは当然のことだと思うが、
必要なのは、遊び道具を取りあげることではなくて、
どんな道具でも安全に遊べる方法を身につけることなんじゃないかな。
っていうか、上記記事のほうがずっと良いこと言ってるので、
もひとつ引用して終わりにしてしまう。
無菌で育てれば子供は健康に育つという考えも間違いだが、家庭の中が無菌であって世界をフィルタリングすれば子供が無菌で育つという考えの方がもっと間違っている。世界の毒から子供を守るものは家族で、家族の毒から子供を守るものは世界だ。子供が健やかに育つためにはどちらも必要だと思う。
仕事の法則(はてな匿名ダイアリー)
真・仕事の法則(404 Blog Not Found)
身も蓋もない仕事の法則(分裂勘違い君劇場)
を読んで。
完全に私的なことだが、私は本当に方向音痴だ。
地理的センス(?)というものがまるでない。
先日も、指導先のお宅に行く際に迷って、同行の教師メンバーに怒られた…。
方向音痴なら方向音痴なりに、下調べをちゃんとしておけと。
ごめんなさい。自分の認知能力を過信してまして…。
ついでに自分のセンスのなさを告白。
まず、美的センスがほぼ全滅。
・ファッションセンスが昔っからない。
・絵のヘタさもなかなかすごい。
・レイアウトやデザインのセンスも、まあ無い。
・字も汚い。
あと勉強に関しては、
・パスワード系暗記は比較的できたが、リンク系暗記はとにかく苦手。
(暗記には二種類ある参照)
・自分で書いた作文を翌日見返していつも赤面。
・漢字ができなすぎて昔はコンプレックスだったほど。
逆にセンスのある部分もちょっとアピールしておく。
わりと自信があるのは、「言葉遊び」の類かな。
小学校では自分の考えたフレーズが運動会の全校テーマになったりしたし(笑)
昔から「ことわざ」とか「なぞなぞ」とかに夢中になってたことや、
小学1,2年の頃にダジャレばっかり言ってた(痛)ことが下地になっているのかも。
あとは、発想力もわりと自信あり。
自信というか、アイデアを生み出そうと考える作業は好きですね。
あとは、誇れるほどではないけど、論理的思考もそこそこ。
さて前置きが長くなったが、自分のセンスがない部分に関してどのように対処するかという話。
最近、方法は4つあるなと考えている。
訓練によってごまかす、戦略を練る、他人のセンスを借りる、ひらきなおる、という4つ。
◆訓練によってごまかす
センスなんてものは、訓練次第でだいぶごまかせるものである。
私の場合、ごまかせてきた気がするのは文章センス。
最近は前日書いた文章を読み直しても、それほど吐き気をもよおさなくなった。
これはブログ等で、とにかく文章を書いて人目に晒す機会を増やしてきた成果だと思っている。
「センスがある」っていうのは、
自分の好む形が他者一般が好む形と一致している状態のことだといえる。
自分の好む形が普通の人が好む形と一致していないのであれば、
他の人に好まれる形のモデルケースをたくさん学習して、
他の人が好む条件を体得していけばよいのである。
「才能がなければ1000曲作ればいい。そうしておれはプロになった」的なことを
爆風スランプのファンキー末吉氏も言っていた。
◆戦略を練る
センスで攻略できない部分は、自分の得意分野を利用した戦略によって
攻略する方法がないか考えてみる。
例えば私は、リンク系暗記はセンスではどうにもならんかったが、
「言葉遊び」という得意分野を活かして、
ゴロ合わせを作りまくることで受験を乗り切った。
また、漢字もなかなか覚えられないが、
これもパスワード系暗記にすることである程度対処できる。
例えば「希望」という漢字は、「目(メ)に布を当てた亡き月の王にキボウを!」
と覚えたが、似たようなことをやったことのある人は少なくないはず。
センスがないことでも、別の方法でセンスを補えるなら、結果は同じである。
◆他人のセンスをかりる
自分自身にセンスがなくても、人の力を借りれば解決することもある。
例えばファッションセンス。
極端な話、毎日自分の服を選んでくれるセンスあるコーディネーターがいれば、
あたかも自分自身にファッションセンスがあるかのような評価を受けられる。
「あの服、ちゃんと自分で選んだんだろうか?」なんてことを気にする人など
普通はいないものだ。
身近にセンスある協力者がいなかったとしても、
センスある人の書いた書物から学ぶことができる。
真・仕事の法則の中の、
まさにこれ!仕事の能率を高める方法などのビジネス書や自己啓発書が読めるかどうかは、自分が不器用で要領の悪い奴だと認められるかにかかっている。
自分にセンスがないと分かっているときは、人の助言に素直に耳を傾けられるもの。
実際、今の私のデザインセンスのなさは、
『ノンデザイナーズ・デザインブック』などによってずいぶん助けられている。
◆ひらきなおる
身も蓋もない仕事の法則にも、
という項目があるが、短所なんて本当に見せ方ひとつで"個性"になることが多い。自分の欠点だと思っていることが、他人から見ると長所になることは意外に多い。たとえば「自分の意見をもたない」人は、「他人と衝突しにくい」という点が評価されて、組織の長に抜擢されたケースがある。
私の場合、最近はもう絵をうまくしようとは思わなくなった。
ヘタクソな絵が、かえって人の心をつかむこともあるからである。
心をつかむといえば大げさだが、勉強指導中に、
もうどうしようもないようなヘタクソなイラストで図解してあげることで、
かえって生徒の印象に残ったりもする。
(教育実習時に黒板に描いた馬の絵は、「クリームパン?」と言われた・・・。)
好きな漫画の連載が進むにつれて作者の画力が向上していったときに
なんだか少し残念な気持ちになったことがある人もいるでしょ?
漢字についても、基本的な漢字がまだだいぶ抜けていたりするのだが、
小学生でも書けるような漢字を「○○ってどう書くんだっけ?」と生徒に聞いたりすると
指導初期などはけっこう生徒の緊張をほぐすのに役立つ
(但し誤字はしないように気をつけている)。
「得手に帆をあげて」っていう考え方もまた好きなのだけど、
センスがあるかないかだけで自分の歩む道を制限してしまうなんて、
悲しすぎるじゃないか。
※追記:こちらもぜひご参考に。
才能とか天才って言葉は嫌い(fladdict)
かっこいいなぁ。
そういうこと!そういうこと!って思う。
関連エントリー:
暗記には二種類ある
うまいこと言うもんだ
最強の集中術
訳書で、原題は"FIND YOUR FOCUS ZONE"というように、
集中したいときは、その作業に最適な「集中ゾーン」に入ることが大切だ、という本です。

上の図は本書から拝借したものだが、
ヤーキーズ・ドットソンの法則の逆U字曲線を表したもの。
細かい説明は省くが、人が作業に集中できていないとき、
実際には、刺激(またはアドレナリン分泌量)が少なすぎる場合と多すぎる場合がある
ということだ。
刺激が弱い(=アドレナリンが少ない)状態というのは、
無気力、気だるい、眠い、リラックスといったような状態。
逆に、刺激が強い(=アドレナリンが多い)状態とは、
興奮、恐怖、不安、プレッシャー、イライラといった状態である。
物事に集中しようと思ったときは、
まず自分がどちらの状態に偏っているのかを理解し、
それに応じた対策をして「ゾーン」の中に入ることが大事であると。
具体的な例でいうと、子どもがテスト勉強に全然集中できないとき、
それが無気力による場合もあれば、
「点数が下がったらどうしよう…」という極度の不安による場合もあるわけで、
後者の場合、「次のテストで点数が下がったらお小遣い減らすよ!」と脅すことは
全くもって逆効果になるということである。
それで本書では、「ゾーン」に入るための
感情や思考をコントロールする方法などがいろいろ書かれている。
ここではひとつだけ、面白いなと思ったものを紹介。
ウィスコンシン大学で行われた実験らしいが、
自分の目標を理解し、応援してくれていると感じる友人・親戚の名前を被験者に見せると、
分析的推論などの課題への取りくみ意欲が向上したという。
なんと、名前を見せる時間を1秒未満に短縮しても結果は同じだったと。
これはすごいね。
つまり、やる気が出ないときには、
自分のことを応援してくれている人の名前を一瞬見るだけでも効果があると。
自分に期待してくれている人からもらうエネルギーとは
思っている以上に大きいものなのだな。
いろんな人に自分の夢や目標を話して、もっともっと応援してもらおう。
と思ったのと同時に、もっといろんな人に「応援してるよ」ってことを伝えようと思った。
「すごいねー」「頑張ってるねー」とか感心してみたり、
「頑張れ」「気にするなよ」とか励ましてみたりすることはあるけど、
「応援してるよ」ってあんまり言わないなあと思った自分。
でも、いろんな仲間に期待してるし、応援してますよ。
なんていうか、それは前提だと思ってた。
わざわざ言う必要がないことだろうと。
でも、確実に伝わってるかというと、どうだろう…。
伝えるようにしよう。
関連エントリー:
困るのはあんたなんだよ
ノウハウを知ればやりたくなる
卓球の文化に学ぶメンタルトレーニング
身体接触に関する感覚の違いについて、さっさと書いてしまうことにする。
一般に言われるように、西洋人は日本人と比べて
公衆の場での身体の接触に関して敏感だ。
エレベーターや満員電車で身体がギュウギュウに押し付けられるのが
西洋人にとっては我慢ならないらしい。
これすなわち西洋人は人との接触を嫌う人情味に欠けた人種だということかというと
もちろん、そんなことはない。
初対面の相手との握手、親しい友人とのハグなど、
むしろ身体の接触を伴う習慣は日本より多いのだ。
そこで、逆に考えてみると面白い。
西洋はフラットな社会であり、個々人が皆対等に尊重されるゆえ、
個々人の身体への接触に、日本人よりも重大な意味をもたせる。
そこで、握手やハグといった身体接触をゆるす習慣が、
相手への好意を示すための行為として意味をもつのではないか。
では日本人はというと、日本は縦社会であるから、
相手に対して自分の立場が上か下かが重大な意味をもつ。
だから、日本人の習慣は、「自分の立場はあなたより下ですよ」と
頭を下げることで示してみせる「おじぎ」なのだ。
ってなことを学生時代に書いてカナダ人の教授に見せたら、
「日本人が身体接触を気にしないのは、日本の土地が狭いからだよキッド」
って言われて、なるほどそうかもって思った。
そして評価はBだった(笑)
関連エントリー:
教育人間塾:「一身独立」と「交際」
例えば便座は下ろしておくのが一般的だと思っていること
結論から言ってしまうと、「一身独立」と「交際」についてである。
福沢はまず、人を「身体」からとらえる。
人は皆、他人と離れた"一身"をもっていて、自らの心身の働きを起こしている、と。
これが「一身独立」。
(ちなみに「自ら」はもともと「身ずから(躬ずから)」と書いたらしい。なるほどー)
人間は他の動物と同じ自然の生き物であって、
誰でも蚊に刺されたらかゆい、棒でぶたれたら痛い。
皆対等なのだよ、と。
そして、心と身体は1つであり、自分の「かゆい」「痛い」は他人と取り替えられないのだから、
自分の身体は自分の心でもって制すべし。
Aさんの心でBさんの身体に命令しちゃならんし、
Bさんは自分の身体をAさんの心によって動かしちゃならん、と。
というわけで、人は皆一身独立して衣食住を確保すべし、と。
だけど、それだけで「独立の活計」とか「不羈独立」とかいって、えらそうにするなよ?
人が蒔いた種を何百倍にも育てあげるのは、人の力ではなくて自然の力だし、
衣食住の確保ができたところで、動物に劣らないというだけの話だ。
「万物の霊」たる人の目的は、「交際」にこそある、と。
広く人と交わり、世の益をなすべし、と。
こんな感じでしょうか。
個人的に興味深かったのは、近代の自由観は「身体の自由」と「移動の自由」からなるという話。
身体の自由に関しては、体罰やセクハラの問題に代表されるように、
他人の身体にふれることは重大な問題であるということ。
外国人は日本人よりも身体の接触に関して敏感だという話も挙げられていた
(これについては一度論文を書いたことがあるので、そのうち別エントリーで)。
移動の自由に関しては、まさにこれが制限されていたのが、
封建時代の身分制度であったと。
最近ちょうど参勤交代とかを生徒に教えていたので、なるほどと思った。
あとは、東西ドイツ分断も、結局「移動」を制限しきれなくなって崩壊したよねと。
さて、今後読み進めるときに、ちょっと気にかけておきたいポイントいくつか。
・「世の益をなすべし」って具体的にどういうこと?
・前回の「差図」って、Aさんの心でBさんの身体を動かすことじゃないの?
「一身独立」してる限りは、「差図」も不要ってことかな?
・「天は人の上に~」の"天"って何なの?"自然"とは違うの?(他の方より)
・福沢は「人は一身独立だ。但し、分限を越えない(他人の妨げをしない)限り」と言っているから、
これは既に「交際」があることを前提にしてるんじゃない?(他の方より)
今後も福沢の言動から目が離せない!
「教育人間塾」その他の記事
学問のすすめ (岩波文庫)
The Postal Serviceの、Give Up収録"Such Great Heights"より。
Everything looks perfect from far away.
しいて解説するなら、ポイントは2点。
まず、この"look"は見るじゃなくて、「~に見える」ですね。
そして、ぜひこのフレーズで学んでほしいのは、
"every~"は単数扱いっていうこと。
なので三単元のSがついて"looks"になっています。
あとは、さらにしいて言えば、
"far"は「遠く」の意味なんだけど、
肯定文では"far"単独では使わないのが普通。
基本、"far away"とか"so far"とか、なんかくっついて出てきます。
っていうのもついでに覚えてしまうといいかも。
っていうかそんなことよりも、このフレーズかっこいいでしょ!
「どんなものだって遠くからなら完璧なように見えるよ」
んー、文脈によって違った意味にとれる言葉ですね。
気になるあなたは歌詞の全文和訳にチャレンジ!
In Utero収録の"Heart-Shaped Box"より。
I've been locked inside your heart-shaped box for a week.
現在完了の継続用法はこの文で覚えましょう(笑)
この文は、現在完了(have + 過去分詞)と、受け身(be + 過去分詞)がくっついた形になってます。
まず、"be locked"で、「鍵をかけられる」という受け身になる
("locked"はlockの過去分詞形)。
この受け身の"be"がさらに現在完了のルールで過去分詞になって"been"。
で、"have been locked"となります、と。
ここまで、"for a week"も合わせて訳すと、
「私は1週間にわたって鍵をかけられています」となりますね。
現在完了の継続用法ですね。
注意してほしいのは、「現在完了」っていう呼び名から
「もう終わったこと」(=過去)を表すと思ってしまう人が少なくないけど、
そうでなくて、過去のある時点から現在までの期間を表すのが現在完了なのだ。
だからこの場合、1週間前から始まって、現在も鍵をかけられていることになる。
"○○-shaped"っていうのは、「○○の形をした」っていう意味なので、
"heart-shaped box"だと、「ハートの形をした箱」になります。
全体合わせて、カッコよく訳すとこんな感じ。
「オレはお前のハート型の箱の中にもう1週間も閉じ込められている」
「お前のハート型の箱の中に閉じ込められてる」って、
要するに心を奪われてるってことかな??
なんてかっこいい告白の仕方だ・・・。
札幌市の都市景観重要建築物 エドウィン・ダン記念館など5件(北海道新聞)
札幌市は、歴史・文化的に貴重な建築物を後世のために保存する二〇〇七年度の「都市景観重要建築物」に、南区真駒内泉町一のエドウィン・ダン記念館など五件を指定した。
このほか指定されたのは、札幌聖ミカエル教会(東区北一九東三)、城下医院(中央区南五西二一)、カトリック北一条教会聖堂(同北一東六)、同教会司祭館カテドラルホール(同)。指定された建物は、これで二十三件になった。
エドウィン・ダン記念館は一八八七年(明治二十年)、畜産の普及・改良の拠点となった真駒内種畜場内に建てられた事務所。玄関上部の棟飾りや側面のアーケード付き洋風テラスなど、当時のアメリカの牧場の建物をほうふつとさせる。
小さい頃から馴染みのあった場所なので
なんかわからないけど、純粋にうれしい。
小学生くらいのときに、たて壊されるっていう噂を何度も耳にしたけど、
今思えばあれは子どもらの中のどこかから自然発生したデマだったんだな・・・。
高校入試本番で、アイヌの指導者を答えさせる問題で
「シャクシャイン」って書くべきところを「エドウィン・ダン」って書いたのを思い出した。
ローカルすぎるw
エドウィン・ダン記念館