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あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド  
2008.10.21 (Tue)
ちょっと保育施設で働く友人が悩んでたから
したり顔でふぃんらんど・めそっどを語ったら
なんか不服申立てされたので、ちゃんと記事書きます。


テーマは、生徒が悪いことを悪いと思わない場合どうするの?ってこと。

つまり、「なんで謝んなきゃいけないの?」って言われたときに、
「自分が同じことされたら嫌でしょ?」って言っても、
そういう気持ちにならない子に対してはそれは意味のない言葉で、
だけどそういうルールを教えないわけにはいかないし・・・っていう話。


ちょっと小学校のときの体験を思い出したのでまずその話から。

小学3年のとき、クラスの女の子が廊下で嘔吐しちゃって、
それを同じクラスの悪ガキがからかったことがあった。
当時流行ってたWE ARE THE CHAMPのメロディで
「オ~エ~オエオエオエ~」っていう替え歌作って。

それを後で先生が叱ったんだけど、やはりというか、
「○○くんもそういうことされたら嫌でしょ?」って咎めた。
そしたら○○くんは「別に。楽しいじゃん」みたいに答えた。

そのとき、最終的にその先生は
「じゃあ○○くんはあまのじゃくなんだね。みんなと違って」
っていう言い方をしてた。
そのときのことは、確かに自分の中でちょっとひっかかってた。


学校の教師として、こういうときにどういう指導をするべきなんだろうか。

やはり「吐いた人をからかっちゃだめだよ」っていうことを教えるべきなのだろうけど、
「なんで?」ってなったら、なんでなのだろう。


ちょうど先日の教育人間塾で、フリースクールについて考えるとき、
村山先生が「"学校"とは何なのだろう」という話をされていた。

先生曰く、学校とは
「ある一定のカリキュラムを、特定の年齢集団に対して組織的・集団的に教える場」
であって、そこにある要素は、第1にカリキュラム、第2に教師と生徒、
そして第3に、社会的義務(期待)なんじゃないかと。

そう考えると、フリースクールの「フリー」っていうのは
この3番目の要素、つまり
「学校が生徒に教えるべきこととして社会から期待されるもの」
からのフリーなのではないかとおっしゃっていた。


そしてその話を聞きながら、それはまさしくあれじゃないか、
フィンランド教育でいうところの「構成主義」に通じるものじゃないか
とか思った。

フィンランドでは、教育の概念は、
客観主義から構成主義へと発展すると考えられている。

客観主義とは、
「知識や法則というのは客観的なものであり、
 物事の真偽は人間の意識にかかわりなく決定されている」
と考える立場である。

よって学習の目標は、「体系化された客観的な知識を覚えること」となる。
日本の学校教育はこの立場だと考えていいと思う。

対して構成主義とは、
「知識というものは何らかの目的・価値観が前提となって構成されるのだ」
と考える立場である。

知識とは、目的に応じて事実から切り取られ、構成されるものであり、
学校で何をテーマにどこまで学ぶかは、
教師と子どもたちとの共同作業で決められていく。

だからフィンランドには、国が知識を管理するという発想がなく、
教科書もひとつの教材でしかないので、検閲もない。


正確にはフィンランドの教育がとる立場は構成主義ではなくて、
「社会構成主義」だという。
これは、構成主義の「構成」は、社会的な脈絡、
すなわち人間関係や社会との関係の中で起きるものであり、
学習の質は「協同」という活動によって大きく左右されると考える立場である。

学ぶべき知識の「構成」は一人で起こすものではない。
それゆえフィンランドの教育改革は、習熟度別編成から
異質集団方式への転換の道をたどったのだと考えると合点がいく。

ちょうどguri_2さんが
今の小学校では調べ物学習をさせられない」という話をされているが、
ここでいわれている班単位での調べ物学習っていうのは
まさしく社会構成主義的な学習だといえる。

この記事にある、無気力な小学生が多くて調べ物学習ができないっていう現象が
もし日本全体で見られる傾向だとしたら、
日本の教育は本当にフィンランドとは真逆へ進んでいるといえる。


さて今ふたたび、先程のあまのじゃく生徒の問題を考えてみたい。

客観主義の立場からいえば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪い行為だ」という倫理観は
絶対的に正しい事実として初めから存在しているので、
ただそれを子どもに教えてやればよい。

しかし、社会構成主義の立場で考えると、そのような倫理観は絶対的なものではなく、
個人的・主観的なひとつの考え方でしかないということになる。
したがってそれを教師が生徒に強要することには何の意味もなく、
そのような知識は、生徒自らが他の人間との関係性のなかで構成すべきだ
ということになるのである。

実際フィンランドでは、教師が生徒に注意することは極めて少ないという。
授業中に立って歩いたり、ソファーで休んだりしている生徒が普通にいる。
その行為が他人の邪魔になるときだけ注意するのだそうだ。

ではどのように注意するのか、ひとつの例をあげると、
たとえば授業中におしゃべりをする生徒に対しては、
なぜおしゃべりをするのか、その説明を生徒に求め、他の生徒にも意見を求める。
その上で、その行為が今行うものとしてふさわしいかどうかという判断を
最終的には生徒に委ねるのだという。

そうすることで、「なぜ自分が注意されるのかわからない」
という状況だけは避けるようにしているのだ。


さて以上から、日本的な教育の立場にたてば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。それが唯一の真実である。
(少なくとも、社会的に期待された価値観である)」
と教えればよいということになる。

社会構成主義の立場にたつならば、
「嘔吐した生徒をからかうのは悪いことだ。私はそう考える。
 あなたの隣の生徒もそのように考えている。
 さて、あなたはどう思うか?」
ということになるだろうか。
少なくとも公教育において強要すべき価値観ではないから、
結局は生徒がどう考えようが自由、ということになる。


「なんだかフィンランドの教育って人間味がないなぁ」
ってことになりそうな気がしたので、一応補足。

重要なのは、フィンランド人にとって、
学校とはあくまでも「勉強」をする場所であって、
しつけや道徳を教わる場所ではないということである。

ではそれらは学校でなくてどこで教わるのかというと、
いうまでもなく、家庭である。
フィンランドの教育は、しっかりとした家庭生活の上に成り立っているのである。

それは教師であっても例外ではない。
法定勤務時間に占める実際の授業時間の割合を比べると、
日本の中学校教師では勤務時間の2割半が授業時間であるのに対し、
フィンランドでは勤務時間の6割が授業の時間に当てられている。
教師の授業以外の負担は最小限にとどめられているのである。



さて、ここからようやく冒頭の問題に対する自分の考えになるわけです。

やっぱりポイントは「他人の迷惑」っていう部分じゃないかと。
いわゆる公共の福祉。

自分のある行為について、
仮に他人がどうしてそれを嫌がるのかがわからなくても、
「嫌がる人がいるのならやめましょう」
って言われて納得することはできるんじゃないかと思う。

廊下で吐いたことをからかわれたら悲しい。
被害者の立場にたって考えた結果その気持ちに共感できるなら話は早いけど、
常にそこを目指すっていうのはやっぱり難しいんじゃないだろうか。

逆に、いろんな文化にいろんな考え方の人がいて、
それぞれ違うんだけどもうまくやっていくことはできるんだ
ってことを学ぶのも、それはそれで大事なことだと思う。


そして他人の迷惑にならないことであれば
いろんな考え方を認めてあげればいいんじゃないかと思うんだけど、
そうはいっても学校教師として働くとしたら
校則違反を注意しないわけにはいかないよなぁ。

「なんで制服のボタンを外しちゃいけないの?」
っていう問いに答えるのは難しい。


校則といえば、高校のとき、学校祭かなんかのクラスの打ち上げで
夜遅くに公園で花火をはじめようとしたら
おまわりさんがやってきて、
「校則違反じゃないのか!」って注意されたのは
なんというか、不思議な体験でした。



参考文献:
競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功』(朝日選書)
受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋)

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