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批判から逃れるために文章の書き手がやっていること  
2009.02.18 (Wed)
Web担当者Forumに「優れたブログ記事を書く誰でもできるやり方
という記事があがっていて、
その中に「最終確認でゴミを取り除く」のが一番重要なステップだと書いてある。

ちょうど最近読んだ本で、
「国語力」をつける本―すべての能力の「土台」は、ここにある』の中に、
「文章を『推敲する』ときの四つのポイント」という話があった。

そこに書いてある「ゴミを取り除く」ポイントというのが、以下の4つ。

1. 言葉の重複を削る
(主語"わたし"の乱発、同じ意味の言葉の繰り返しなど)

2. 不要な指示代名詞や接続詞を削る
("これ"、"あの"、"だが"、"そして"など)

3. 記号を削る
(会話や引用以外のカギ"「 」"の使用や、""、""の乱用)

4. 片仮名言葉は削るか日本語に言い換える
("バーチャルリアリティー"、"ニーズ"など)


ここで問題にしたいのは3番目、記号の乱用について。

 大悪役を「大悪役」に、活躍を「活躍」というようにカッコをかぶせるのは、一種の逃げであり、言い訳である。必ずしも大悪役と決めつけるつもりはありませんが、まあ「大悪役的」という意味で書かせてもらいます、カギカッコという留保つきなんですから勘弁してください、とでもいうような。
 事実として大悪役なら、そう書けばいいだけのことである。カッコに、言外のいろいろな意味を担わせる書き方は表現力の衰弱なのである。


この文章を読んで、思いっきりギクッとした。
あー、やってるわ自分、と(笑)


ところで、よく見る文章表現で私が気になるのは、
「間違ってるかもしれないですけど・・・」みたいな、保険をかけるような表現。
これも一種の逃げであり、言い訳なんじゃないかなと思う。

ものは言いようで腹が立つ―どうにも失礼な日本語』の中にも、
「不要な前置き」という項があって、
「こんなこと言いたくないんだけど」
「一応考えてみたのですが」
「言い訳するわけじゃないんですが」

などが挙げられていた。

皮肉にも、この『「国語力」をつける本』の本文には数多く見られた。

 では、いやしい生き方とはどんな生き方を言うのか。わたしには答える力も資格もないが、ひとつだけこうは言えるのかもしれない。
 いやしい生き方、とはどんな生き方だろうか? といつも自分で自分に問いかけている人は、少なくとも、いやしさから遠いところに生きている人だろう。
 あまり自信はないけれど、わたしもそうありたいと願いながら、同時に、湯豆腐で一杯やりながら生きてもいるのだ。

 国語の力とは、誤魔化さない力だ。もちろんわたしたちは、年中無休、時々刻々、一切の誤魔化しなしに生きてゆくことなんかできはしない。自慢じゃないが、かくいうわたしだって誤魔化しだらけ。
 意識してそうする場合と、無意識のうちにやってしまっている場合とがあるだろう。両方が混在していることもあろう。
 いまお読みいただいている、この文章にしても、具眼の士に鋭く読まれたら、あちこちの誤魔化しが露呈してしまうかもしれない。クワバラクワバラ。
 ただし、誤魔化しだらけだけれど、誤魔化しは恥ずかしいという意識と自覚だけは失っていないつもりだ。一所懸命書いたけれど、ひどい国語を使ってもいるだろう。ひどい国語は恥ずかしいという自省だけは、くりかえしているつもりだ。
 自省していると100万回くりかえしたところで許されるわけではなかろうが、自省ゼロよりは少しはましかもしれない。

 貧しい国語力と思考力の人間ながら、わたしもまた奈良で大いに歩いた。
 (中略)このようにここを歩くと、いつだって、おおらかな、朗らかなこころになって、少しかもしれないけれど、「力」が増したように感じるのだ。

 正直に言って、わたしにはわからない。わからないけれど、これまでの貧しい経験から考えて、これだけは言える。「方法」というような便利なものや、マニュアルはない。
 世の中には、マニュアルのごときものがたくさん流布しているようだが、それを読んだ人びとが、もしみんな忠実に守ってしゃべったら、日本中に「こころに訴える話し方」のソックリさんが満ちあふれてしまう。
 わからないけれども、もうひとつ言えるのは―(略)

  ※強調は引用者による

なんというか、読んでいて
「わかったから!わかったから!」と言いたくなる(笑)


あと、よくある「自戒を込めて」というやつ。
これは便利な言葉である。

どう便利かというと、例えば本書でも、前述の推敲ポイントの3番目の
カギカッコの乱用について書いてあるところに、

 長年、新聞記者をやってきたわたしは、このあたり、大反省をこめながら記しているのです。

とあるので、
たとえ見出しが"文章を推敲するときの四つのポイント"であっても、
たとえ書名が"国語力をつける本"であっても、
たとえサブタイトルが"すべての能力の土台は、ここにある"であっても、

おまえもやってるじゃねーか!!
と批判するわけにはいかないのである。


ついでに言うならば、この著者はよく
「モンダイ」「バカヤロウ」「テイタラク」「センエツ」「ニンゲン」「ベンリ」
と、日本語表現をあえてカタカナで表記しているのだが、
これも結局「 」をつけるのと同じで、
留保つきですよという逃げではないかと思った。

例えば以下のような書き方。

 ここまでいってなお、ビデオを見ようとしない人は、国語力も思考力も、失礼ながら、ほとんどゼツボウ的である。


いやね、本気で絶望的だと思ってるわけではなくて、
ある意味で「ゼツボウ的」的だよと言っているだけですよ、と。

まあこのくだりは特にネタ的に書いてる部分っぽいので、
そういう意味ではまさにその機能を全うしていていいのだろうけど、
「 」と同様、乱用には気をつけたほうがよさそうだ。


以上をふまえ、批判をさけるためにやってしまいがちな表現をまとめる。
・留保をつけるための「 」の使用
・保険をかけるための「間違ってるかもしれないけど」的表現
・反感を減らすための「自戒を込めて」
・広義に解釈させるためのカタカナ表記


これらの乱用には気をつけるべし。自戒を込めて。



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