2009.03.13 (Fri)
「子どもに自信を与える方法」について、
スルーするのもすっきりしないので言及エントリー。
東京都での自尊教育導入を受けての話。
叱るより褒めるべしってことに異論はないのだけど、
というか、実際その点はよくわからなくて、
川島教授の言うことも一理ある気はするのだけど、
とりあえず「自尊教育」に話をしぼろう。
褒めることで「自分嫌い」がなおるのかってのは
これまでの経験から考えるに、わりと疑わしい。
叱ることがストレスやトラウマになるとか、
褒めることで安心感が生まれるってのはあると思うけど、
それはまた別の話で、
「すごいね!」って言われて
「やったあ自分はすごいんだ!」ってなるほど
単純ではないんじゃないのっていう話。
というわけで、親子関係も含め、子どもに対して
自尊心を持たせるにはどういう教育をしたらよいか。
私が考え得る戦略は2パターンある。
Aパターンとして、とにかく教育者自身が自信満々の姿勢を示す。
というのは、多くの日本人にとって謙遜的な表現っていうのは
もう社会によって条件づけされているようなもので、
自分で内心どう思っていようが、対人シーンでは
「私なんて・・・」っていう態度をとってしまうものなのだ。
もちろんそれだけなら特に問題はないのだけど、
問題なのは、自分で「私なんて」って言ってるうちに
自己暗示的に自尊心が低下していくケースが多いことだ。
普段から「私なんかほんとドジでさー」と口癖のように言っていると、
ちょっとした失敗をしたときに「ああやっぱり私はドジなんだ」と
抵抗なく思えてしまうものなのだ。
なのでこの場合、まず自分が率先して、
「楽勝だよ」「余裕だよ」っていう態度をとり続ける。
ちょっと失敗しても、「油断しすぎたな」とか、「わざとだよ」とか、
全然気にする素振りを見せない。
そのうちに、「あ、こういう姿勢もアリなんだ」って
思ってもらうことを目指すのである。
Bパターンとして、ハナっから自分に自信が持てない子の場合。
そのときは、二段階のプロセスを経る必要がある。
まず、自分がその子どもにとって尊敬に足る存在になる。
その上で、その子どものことを「認めて」あげる。
あなたは自分に自信を持てるだけの人なんだよと認めてあげるのだ。
褒めるというのとはちょっと違う。
たとえばテストで3問しか正解できなかった子に、
「3問も正解できたんだーすごいねー」と褒めるのは、逆にいえば、
相手のことをそれ以上正解できる子だと認めていないことになる。
だから場合によっては、褒めない。
でも叱るわけではない。
「なんで3問しか正解できなかったんだ!」じゃなくって、
「今回は失敗したね。原因を考えてみようか?」みたいな対応になる。
(書いてて思ったけど、このへんはコーチングのメソッドに似てるな)
そのとき子どもは、自分はバカだから無理なんだよとか言うかもしれない。
それはもちろん否定してあげる。
このときに大事なのが、まず自分が子どもに認められていることなのだ。
自分が認められてもいないのに「おまえはバカじゃないよ」と言ったって
なんの効果もない。
認めている存在から認めてもらうことが自信につながるのである。
だから、まず自分が子どもに尊敬される存在にならなくてはいけない。
これはもう、なんとかしてなる!とにかくなる!
「この人が言うんだから間違いない」と思ってもらうことを目指すのである。
実際には、この2パターンを並行して攻めるのがよいだろう。
自信を持てたときに、自然にそれを表現できるように仕向けていくのである。
まあ、言うは易し・・・ですけどね。
関連エントリー:
・ダメ回答を期待した発問をしちゃいけない
・個性を発揮しろ!※ただし期待されるとおりに
・失敗体験によって学ぶ
スルーするのもすっきりしないので言及エントリー。
東京都での自尊教育導入を受けての話。
叱るより褒めるべしってことに異論はないのだけど、
というか、実際その点はよくわからなくて、
川島教授の言うことも一理ある気はするのだけど、
とりあえず「自尊教育」に話をしぼろう。
褒めることで「自分嫌い」がなおるのかってのは
これまでの経験から考えるに、わりと疑わしい。
叱ることがストレスやトラウマになるとか、
褒めることで安心感が生まれるってのはあると思うけど、
それはまた別の話で、
「すごいね!」って言われて
「やったあ自分はすごいんだ!」ってなるほど
単純ではないんじゃないのっていう話。
というわけで、親子関係も含め、子どもに対して
自尊心を持たせるにはどういう教育をしたらよいか。
私が考え得る戦略は2パターンある。
Aパターンとして、とにかく教育者自身が自信満々の姿勢を示す。
というのは、多くの日本人にとって謙遜的な表現っていうのは
もう社会によって条件づけされているようなもので、
自分で内心どう思っていようが、対人シーンでは
「私なんて・・・」っていう態度をとってしまうものなのだ。
もちろんそれだけなら特に問題はないのだけど、
問題なのは、自分で「私なんて」って言ってるうちに
自己暗示的に自尊心が低下していくケースが多いことだ。
普段から「私なんかほんとドジでさー」と口癖のように言っていると、
ちょっとした失敗をしたときに「ああやっぱり私はドジなんだ」と
抵抗なく思えてしまうものなのだ。
なのでこの場合、まず自分が率先して、
「楽勝だよ」「余裕だよ」っていう態度をとり続ける。
ちょっと失敗しても、「油断しすぎたな」とか、「わざとだよ」とか、
全然気にする素振りを見せない。
そのうちに、「あ、こういう姿勢もアリなんだ」って
思ってもらうことを目指すのである。
Bパターンとして、ハナっから自分に自信が持てない子の場合。
そのときは、二段階のプロセスを経る必要がある。
まず、自分がその子どもにとって尊敬に足る存在になる。
その上で、その子どものことを「認めて」あげる。
あなたは自分に自信を持てるだけの人なんだよと認めてあげるのだ。
褒めるというのとはちょっと違う。
たとえばテストで3問しか正解できなかった子に、
「3問も正解できたんだーすごいねー」と褒めるのは、逆にいえば、
相手のことをそれ以上正解できる子だと認めていないことになる。
だから場合によっては、褒めない。
でも叱るわけではない。
「なんで3問しか正解できなかったんだ!」じゃなくって、
「今回は失敗したね。原因を考えてみようか?」みたいな対応になる。
(書いてて思ったけど、このへんはコーチングのメソッドに似てるな)
そのとき子どもは、自分はバカだから無理なんだよとか言うかもしれない。
それはもちろん否定してあげる。
このときに大事なのが、まず自分が子どもに認められていることなのだ。
自分が認められてもいないのに「おまえはバカじゃないよ」と言ったって
なんの効果もない。
認めている存在から認めてもらうことが自信につながるのである。
だから、まず自分が子どもに尊敬される存在にならなくてはいけない。
これはもう、なんとかしてなる!とにかくなる!
「この人が言うんだから間違いない」と思ってもらうことを目指すのである。
実際には、この2パターンを並行して攻めるのがよいだろう。
自信を持てたときに、自然にそれを表現できるように仕向けていくのである。
まあ、言うは易し・・・ですけどね。
関連エントリー:
・ダメ回答を期待した発問をしちゃいけない
・個性を発揮しろ!※ただし期待されるとおりに
・失敗体験によって学ぶ
笹木 陽一 |
2009.03.15(日) 17:38 | URL |
【コメント編集】
>笹木先生
貴重なご意見ありがとうございます。
いただいたコメントを拝読してから改めて記事を読み返すと
議論の浅さが露呈してしまいますね(汗)
ほめるということに限らず、何らかの報酬によって学習を促すことが
オペラント条件付けにつながるんじゃないか、つまり
報酬がなければ動機を見いだせない子になってしまうのでは
という問題については僕もずいぶん悩ませられているところでした
(実際に動物実験ではそういう結果が出ていますね)。
自分の中では、今でも結論の出ない問題なのですが、
今のところ、導入の時点である程度報酬の力を利用すること自体は
悪くないだろうと考えてはいます。
とはいえ、相互作用的な支援の必要性については全くもって同意見です。
特に上記事で書いた、教育者自身が前向きな態度を示すということも、
まず教育者が認められる存在になり、認めてあげるということも、
どちらも教師と生徒の関係に限らず、むしろ生徒間でこそ
顕著な効果を見せるものではないかと思っています。
今ふと思いましたが、学校教育における音楽など副教科の時間というのは
5教科の勉強が苦手な子どもにも自己肯定感を持たせるための機会としても
役割を果たしているところは実は大きいのでしょうね。
貴重なご意見ありがとうございます。
いただいたコメントを拝読してから改めて記事を読み返すと
議論の浅さが露呈してしまいますね(汗)
ほめるということに限らず、何らかの報酬によって学習を促すことが
オペラント条件付けにつながるんじゃないか、つまり
報酬がなければ動機を見いだせない子になってしまうのでは
という問題については僕もずいぶん悩ませられているところでした
(実際に動物実験ではそういう結果が出ていますね)。
自分の中では、今でも結論の出ない問題なのですが、
今のところ、導入の時点である程度報酬の力を利用すること自体は
悪くないだろうと考えてはいます。
とはいえ、相互作用的な支援の必要性については全くもって同意見です。
特に上記事で書いた、教育者自身が前向きな態度を示すということも、
まず教育者が認められる存在になり、認めてあげるということも、
どちらも教師と生徒の関係に限らず、むしろ生徒間でこそ
顕著な効果を見せるものではないかと思っています。
今ふと思いましたが、学校教育における音楽など副教科の時間というのは
5教科の勉強が苦手な子どもにも自己肯定感を持たせるための機会としても
役割を果たしているところは実は大きいのでしょうね。
丁寧にコメントに応えていただきありがとうございました。
「導入の時点である程度報酬の力を利用すること自体は悪くない」との認識に基本的には同感です。私はレポートで市川伸一氏の「学習動機の二要因モデル」 (内容関与的動機:充実志向・訓練志向・実用志向/内容分離的動機:報酬志向・自尊志向・関係志向)に沿って学習意欲について論じました。このモデルにおいては、内発的動機付けの最も高い状態は充実志向であり、外発的な状態は報酬志向であるといえます。市川氏は「自尊志向」を内容分離的な動機として「報酬志向」と並べて挙げています。市川氏の理論の妥当性については吟味の必要がありますが、外発的な動機からスタートして徐々に内容関与的な「充実志向」に向かうという図式になっているのではないかと今の段階では理解しています。茂木健一郎も「学ぶことそのものが脳の喜びにつながる」というような説明をしていますね。
学習意欲も自尊心も低く、「学びからの逃走」(佐藤学)と評される若者達を前にして、赤坂さんが掲げていらっしゃるpositiveでproactiveな子どもの育成に迫るためには、まずは「学びそのものの喜び」を子ども達と共有する事が必要なのだと考えます。そのために子どもにとって魅力的な対象(報酬)からスタートするという発想に立って、私は授業開始5分間を使って、子ども達がローテーションで好きな音楽を持ち寄り、聴き合うという活動を続けています。いつもは何も表現しない大人しい生徒でも、この時ばかりは楽しそうに曲を紹介し、嬉しそうに感想を書きます。自分が紹介した曲がみんなに受け入れられることで自信がつき、それから学習に対する構えが変わっていった子もいます。学校での学びと学習塾での学びを安易に比べることはできませんが、「5教科の勉強が苦手な子どもにも自己肯定感を持たせるための機会」の例として紹介させていただきました。
「自尊感情」の問題は、「モチベーションをいかに高めるか」という方法論だけで解決するわけではないと思いますが、教育現場においては構成的エンカウンターやソーシャルスキル教育、アサーション・トレーニングなど多くのアプローチが紹介されています。東京都の自尊教育もこれらの成果を踏まえたものである事が予想されますが、別エントリーのコメントに書かせていただいた通り、「マニュアル化」 の問題点から逃れる事はできません。特に学校教育では常に「評価」の問題が絡んできますので、型通りできることが良く評価され、それから外れるものを認めず、型にはめ込んでいこうとする傾向があります。その中で本当に大切なのは、不十分な表現でもそれを認め合う雰囲気があれば、どんな子にも表現できる事があるのだろうという事です。相互作用的な支援が「むしろ生徒間でこそ顕著な効果を見せるものではないか」との赤坂さんの指摘は、まさにその事をにつながるのではないかと考えさせられました。
書いている内にまたも長くなり申し訳ありません。別に論争をしたいというわけではなく、自尊心=自己肯定感の問題が今日的な教育課題の中でとても大きな位置を占めていると日頃から感じていたものですから、この機会に考えを述べさせていただきました。いつかゆっくりとこの問題についてお話しできることを期待して、人間塾でお会いできる事を楽しみにしたいと思います。
「導入の時点である程度報酬の力を利用すること自体は悪くない」との認識に基本的には同感です。私はレポートで市川伸一氏の「学習動機の二要因モデル」 (内容関与的動機:充実志向・訓練志向・実用志向/内容分離的動機:報酬志向・自尊志向・関係志向)に沿って学習意欲について論じました。このモデルにおいては、内発的動機付けの最も高い状態は充実志向であり、外発的な状態は報酬志向であるといえます。市川氏は「自尊志向」を内容分離的な動機として「報酬志向」と並べて挙げています。市川氏の理論の妥当性については吟味の必要がありますが、外発的な動機からスタートして徐々に内容関与的な「充実志向」に向かうという図式になっているのではないかと今の段階では理解しています。茂木健一郎も「学ぶことそのものが脳の喜びにつながる」というような説明をしていますね。
学習意欲も自尊心も低く、「学びからの逃走」(佐藤学)と評される若者達を前にして、赤坂さんが掲げていらっしゃるpositiveでproactiveな子どもの育成に迫るためには、まずは「学びそのものの喜び」を子ども達と共有する事が必要なのだと考えます。そのために子どもにとって魅力的な対象(報酬)からスタートするという発想に立って、私は授業開始5分間を使って、子ども達がローテーションで好きな音楽を持ち寄り、聴き合うという活動を続けています。いつもは何も表現しない大人しい生徒でも、この時ばかりは楽しそうに曲を紹介し、嬉しそうに感想を書きます。自分が紹介した曲がみんなに受け入れられることで自信がつき、それから学習に対する構えが変わっていった子もいます。学校での学びと学習塾での学びを安易に比べることはできませんが、「5教科の勉強が苦手な子どもにも自己肯定感を持たせるための機会」の例として紹介させていただきました。
「自尊感情」の問題は、「モチベーションをいかに高めるか」という方法論だけで解決するわけではないと思いますが、教育現場においては構成的エンカウンターやソーシャルスキル教育、アサーション・トレーニングなど多くのアプローチが紹介されています。東京都の自尊教育もこれらの成果を踏まえたものである事が予想されますが、別エントリーのコメントに書かせていただいた通り、「マニュアル化」 の問題点から逃れる事はできません。特に学校教育では常に「評価」の問題が絡んできますので、型通りできることが良く評価され、それから外れるものを認めず、型にはめ込んでいこうとする傾向があります。その中で本当に大切なのは、不十分な表現でもそれを認め合う雰囲気があれば、どんな子にも表現できる事があるのだろうという事です。相互作用的な支援が「むしろ生徒間でこそ顕著な効果を見せるものではないか」との赤坂さんの指摘は、まさにその事をにつながるのではないかと考えさせられました。
書いている内にまたも長くなり申し訳ありません。別に論争をしたいというわけではなく、自尊心=自己肯定感の問題が今日的な教育課題の中でとても大きな位置を占めていると日頃から感じていたものですから、この機会に考えを述べさせていただきました。いつかゆっくりとこの問題についてお話しできることを期待して、人間塾でお会いできる事を楽しみにしたいと思います。
笹木 陽一 |
2009.03.17(火) 20:03 | URL |
【コメント編集】
>笹木先生
非常に有益なコメントありがたい限りです!
>外発的な動機からスタートして徐々に内容関与的な「充実志向」に向かうという図式になっているのではないかと今の段階では理解しています。
全く同じ考えです。
>まずは「学びそのものの喜び」を子ども達と共有する事が必要
本当に、結局それが一番理想なんですよねぇ。
でも、僕自身はある意味最も苦戦している部分でもありますね。
音楽の授業のはじめに子どもが好きな音楽を公表するというのはいいですね!素晴らしいと思います!
いずれ何かの機会に盗用させていただきます(笑)
>構成的エンカウンターやソーシャルスキル教育、アサーション・トレーニングなど
不勉強でした。チェックしておきます。
マニュアル化については、評価の問題もそうですが、
そのマニュアル化が教育現場から離れたところで行われるとなると心配ですね。
村山先生もおっしゃっていたように、やっぱり学校教育は現場の教師ありきですから。
ご多忙のことと思いますが、ぜひまたゆっくりお話お聞かせいただきたいです!
非常に有益なコメントありがたい限りです!
>外発的な動機からスタートして徐々に内容関与的な「充実志向」に向かうという図式になっているのではないかと今の段階では理解しています。
全く同じ考えです。
>まずは「学びそのものの喜び」を子ども達と共有する事が必要
本当に、結局それが一番理想なんですよねぇ。
でも、僕自身はある意味最も苦戦している部分でもありますね。
音楽の授業のはじめに子どもが好きな音楽を公表するというのはいいですね!素晴らしいと思います!
いずれ何かの機会に盗用させていただきます(笑)
>構成的エンカウンターやソーシャルスキル教育、アサーション・トレーニングなど
不勉強でした。チェックしておきます。
マニュアル化については、評価の問題もそうですが、
そのマニュアル化が教育現場から離れたところで行われるとなると心配ですね。
村山先生もおっしゃっていたように、やっぱり学校教育は現場の教師ありきですから。
ご多忙のことと思いますが、ぜひまたゆっくりお話お聞かせいただきたいです!
いつもコメントを返していただき恐縮です。
「学びそのものの喜び」を共有することの難しさはどこに由来するのか。
私は子ども達が「学習」に利を求めすぎていることが原因なのではないかと考えています。すなわち「テストでいい点数を取りたい」とか「いい学校に合格したい」とかいう、具体的だが現世的でしかない目標のためにしか学んでいないのではないかということです。「~したい」という能動的な意欲であるうちはまだましですが、それが「勉強しないと怒られるから」とか「やりたくないけど、とりあえずやっておかないとまずいから」とか「意味はよくわからないけど、やらねばならぬ」という義務感からなされる「勉強」でしかないのではないかということです。P.フレイレにならって「銀行型教育」といっても良いかもしれません。すなわち「学力」が非常に狭い、測定的で定量的な「貨幣」のイメージで語られており、そこでは「学ぶことの意味」が問われていないのではないかといっても良いかもしれません。
赤坂さんが別の記事で触れている、フィンランドにおける社会構成主義的知識観に立てば、知識とは主体的な学習を通して、対象を自己との関係において意味づけした結果として獲得されるものであり、外側から文脈を無視して与えられるようなものではないはずです。しかし現実の学習においては成績を上げることが目的化しており、そのために家庭教師や塾に通うことを選択するのであって、自己発見や自己実現のために学ぶという意識を持つ生徒は、残念ながら少ないのでしょう。だからこそ赤坂さんがイッポでやろうとしていることには、大きな困難が予想されながらも、極めて価値ある取り組みだと思うのです。
フレイレは「銀行型」に代えて「課題提起型」の教育を提案します。学習者が自己の課題意識に即して、主体的に学び世界を構築していくそのあり方は、理想的過ぎるのかもしれませんが、我々が目指すものとして大いに参考になります。そこにはマニュアルなど存在しうる訳もなく、学習者が世界認識を自ら深めていく探究的な学びが求められます。不定形であいまいな世界を理解しようと努力し、その結果自分なりの世界観や価値を発見し、自ら世界を構築していくような学び、N.グッドマンの言葉を借りれば「世界制作の方法 The way of world making」を志向する学習が必要なのでしょう。残念ながら学校教育だけでは、その理想に迫るには限界があります。赤坂さんが試みていらっしゃる家庭教師や塾といった「私立の活計」の中でこそ、それらは実現の可能性を秘めているように感じます。
現在学校教育は新指導要領の改訂によって、「マニュアル化が教育現場から離れたところで行われる」ことが進行しつつあります。モデルとされる指導方法や評価規準が提示され、そのとおりに実践することを暗に求められます。それに批判的に取り組もうとすると、「教員評価」の名の下に人事管理され、「不適格」の烙印を押されることになります。公教育という制限の中で、「説明責任」のみならず「結果責任」が求められ、分かりやすい成果を挙げない教員は評価されないという時代がやってきました。その中でトップダウンで押し付けられるマニュアルの暴力性から、学びの主体者たる子ども達を守るという意識をしっかりと持って、日々の教育実践に励みたいと思います。「学校教育は現場の教師ありき」という言葉をしっかりと心に刻み、慌てず騒がず淡々と、子ども達と向き合っていきたいと思います。またも長くなってしまいました。では失礼します。
「学びそのものの喜び」を共有することの難しさはどこに由来するのか。
私は子ども達が「学習」に利を求めすぎていることが原因なのではないかと考えています。すなわち「テストでいい点数を取りたい」とか「いい学校に合格したい」とかいう、具体的だが現世的でしかない目標のためにしか学んでいないのではないかということです。「~したい」という能動的な意欲であるうちはまだましですが、それが「勉強しないと怒られるから」とか「やりたくないけど、とりあえずやっておかないとまずいから」とか「意味はよくわからないけど、やらねばならぬ」という義務感からなされる「勉強」でしかないのではないかということです。P.フレイレにならって「銀行型教育」といっても良いかもしれません。すなわち「学力」が非常に狭い、測定的で定量的な「貨幣」のイメージで語られており、そこでは「学ぶことの意味」が問われていないのではないかといっても良いかもしれません。
赤坂さんが別の記事で触れている、フィンランドにおける社会構成主義的知識観に立てば、知識とは主体的な学習を通して、対象を自己との関係において意味づけした結果として獲得されるものであり、外側から文脈を無視して与えられるようなものではないはずです。しかし現実の学習においては成績を上げることが目的化しており、そのために家庭教師や塾に通うことを選択するのであって、自己発見や自己実現のために学ぶという意識を持つ生徒は、残念ながら少ないのでしょう。だからこそ赤坂さんがイッポでやろうとしていることには、大きな困難が予想されながらも、極めて価値ある取り組みだと思うのです。
フレイレは「銀行型」に代えて「課題提起型」の教育を提案します。学習者が自己の課題意識に即して、主体的に学び世界を構築していくそのあり方は、理想的過ぎるのかもしれませんが、我々が目指すものとして大いに参考になります。そこにはマニュアルなど存在しうる訳もなく、学習者が世界認識を自ら深めていく探究的な学びが求められます。不定形であいまいな世界を理解しようと努力し、その結果自分なりの世界観や価値を発見し、自ら世界を構築していくような学び、N.グッドマンの言葉を借りれば「世界制作の方法 The way of world making」を志向する学習が必要なのでしょう。残念ながら学校教育だけでは、その理想に迫るには限界があります。赤坂さんが試みていらっしゃる家庭教師や塾といった「私立の活計」の中でこそ、それらは実現の可能性を秘めているように感じます。
現在学校教育は新指導要領の改訂によって、「マニュアル化が教育現場から離れたところで行われる」ことが進行しつつあります。モデルとされる指導方法や評価規準が提示され、そのとおりに実践することを暗に求められます。それに批判的に取り組もうとすると、「教員評価」の名の下に人事管理され、「不適格」の烙印を押されることになります。公教育という制限の中で、「説明責任」のみならず「結果責任」が求められ、分かりやすい成果を挙げない教員は評価されないという時代がやってきました。その中でトップダウンで押し付けられるマニュアルの暴力性から、学びの主体者たる子ども達を守るという意識をしっかりと持って、日々の教育実践に励みたいと思います。「学校教育は現場の教師ありき」という言葉をしっかりと心に刻み、慌てず騒がず淡々と、子ども達と向き合っていきたいと思います。またも長くなってしまいました。では失礼します。
笹木 陽一 |
2009.03.21(土) 17:56 | URL |
【コメント編集】
>笹木先生
すっかり遅くなってしまってすみません。
またしてもいろいろと考えさせられるコメント、有難い限りです。
>私は子ども達が「学習」に利を求めすぎていることが原因なのではないかと考えています。すなわち「テストでいい点数を取りたい」とか「いい学校に合格したい」とかいう、具体的だが現世的でしかない目標のためにしか学んでいないのではないかということです。
まさしくおっしゃるとおりだと思います!
もっといえば、利を求めているのは本人達以上に親達かもしれません。
勉強は成績を上げるため、進学のためにするものだという意識が
物心がついたときには既に当然のものとして形成されているイメージがあります。
>赤坂さんが別の記事で触れている、フィンランドにおける社会構成主義的知識観に立てば、知識とは主体的な学習を通して、対象を自己との関係において意味づけした結果として獲得されるものであり、外側から文脈を無視して与えられるようなものではないはずです。しかし現実の学習においては成績を上げることが目的化しており、そのために家庭教師や塾に通うことを選択するのであって、自己発見や自己実現のために学ぶという意識を持つ生徒は、残念ながら少ないのでしょう。
別記事までご参照いただいて恐縮です。
フィンランドでは、学校で定められたカリキュラムなど学ぶべきことの1つでしかない
という考え方で国レベルで合意が得られていることが大きいと思います
(本で読んだだけの知識ですが)。
日本で今の環境でそれを目指すのは確かに困難なことですよね。
とにかく定められた内容をきちんと消化していくことが成人近くなるまで
要求され続けるわけですから。
ただ、このへんは難しいところですが、
誰かが言っていたように(名前忘れました汗、誰でしたっけ?)、
実際には、子どもが学ぶ時点ですぐには学ぶ意欲がわかないような内容の中にも
学ばせる価値のあるものというのは確かにあるんですよね。
僕はこの考え方にもまた同意できるので、そういう意味ではある程度の強制力もきっと必要で、
なかなか難しい問題です。
>公教育という制限の中で、「説明責任」のみならず「結果責任」が求められ、分かりやすい成果を挙げない教員は評価されないという時代がやってきました。
話には聞いておりましたが、既にそういう事態は始まっているわけですね。
教員の評価制度については、全く無ければ無いで困るものなのでしょうけど、
教育の画一化を進めるものであることは確かですよね。
そういえば、オバマも教師に競争原理を導入する方針らしいですね・・・。
学校機関とはいえ、現場の教師はやはり「官」でありながらも「私」だと思いますし、
そうあるべきだと思います。
「官」のマニュアルに忠実に従うよりも、それこそ「私立の活計」によって
「官」の方針の軌道修正をしていく。
これは現場の教師にしかできないことです。
本当に教師はますますハードな職業になっていきますね・・・。
僕も早く自分が貢献できるフィールドを確立すべく頑張ります!
すっかり遅くなってしまってすみません。
またしてもいろいろと考えさせられるコメント、有難い限りです。
>私は子ども達が「学習」に利を求めすぎていることが原因なのではないかと考えています。すなわち「テストでいい点数を取りたい」とか「いい学校に合格したい」とかいう、具体的だが現世的でしかない目標のためにしか学んでいないのではないかということです。
まさしくおっしゃるとおりだと思います!
もっといえば、利を求めているのは本人達以上に親達かもしれません。
勉強は成績を上げるため、進学のためにするものだという意識が
物心がついたときには既に当然のものとして形成されているイメージがあります。
>赤坂さんが別の記事で触れている、フィンランドにおける社会構成主義的知識観に立てば、知識とは主体的な学習を通して、対象を自己との関係において意味づけした結果として獲得されるものであり、外側から文脈を無視して与えられるようなものではないはずです。しかし現実の学習においては成績を上げることが目的化しており、そのために家庭教師や塾に通うことを選択するのであって、自己発見や自己実現のために学ぶという意識を持つ生徒は、残念ながら少ないのでしょう。
別記事までご参照いただいて恐縮です。
フィンランドでは、学校で定められたカリキュラムなど学ぶべきことの1つでしかない
という考え方で国レベルで合意が得られていることが大きいと思います
(本で読んだだけの知識ですが)。
日本で今の環境でそれを目指すのは確かに困難なことですよね。
とにかく定められた内容をきちんと消化していくことが成人近くなるまで
要求され続けるわけですから。
ただ、このへんは難しいところですが、
誰かが言っていたように(名前忘れました汗、誰でしたっけ?)、
実際には、子どもが学ぶ時点ですぐには学ぶ意欲がわかないような内容の中にも
学ばせる価値のあるものというのは確かにあるんですよね。
僕はこの考え方にもまた同意できるので、そういう意味ではある程度の強制力もきっと必要で、
なかなか難しい問題です。
>公教育という制限の中で、「説明責任」のみならず「結果責任」が求められ、分かりやすい成果を挙げない教員は評価されないという時代がやってきました。
話には聞いておりましたが、既にそういう事態は始まっているわけですね。
教員の評価制度については、全く無ければ無いで困るものなのでしょうけど、
教育の画一化を進めるものであることは確かですよね。
そういえば、オバマも教師に競争原理を導入する方針らしいですね・・・。
学校機関とはいえ、現場の教師はやはり「官」でありながらも「私」だと思いますし、
そうあるべきだと思います。
「官」のマニュアルに忠実に従うよりも、それこそ「私立の活計」によって
「官」の方針の軌道修正をしていく。
これは現場の教師にしかできないことです。
本当に教師はますますハードな職業になっていきますね・・・。
僕も早く自分が貢献できるフィールドを確立すべく頑張ります!
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2011.03.15(火) 22:22 | |
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そこで個人内評価を重視し、一人一人の良さを見つける肯定的な形成的評価を適切に行いながら、プラスの自己イメージを育て、自信を持って表現できる状況を作ってあげるという事が、教師の支援として最も重要であろう。しかしこう言ったからといって、むやみにほめさえすればよいのではない。伊藤進は従来の「ほめる」教育が、ソーンダイクのいう「道具的(オペラント)条件付け」そのものであり、動物に芸を仕込むのなら良いが、人間の「自立支援」にはマイナスに働き、人の目ばかりを気にする(評価されないと動けない)受動的な存在を作り出していると指摘する。失敗してもそれまでの努力をほめるので、子どものつまずきを回避し失敗耐性を身につける機会を奪ってしまうともいう。三上勝夫はピアジェの「同化」やヴィゴツキーの「発達の最近接領域」論を参照しながら、子どもの「生活的概念」が、「つまずき」の組織としての授業を通して「科学的概念」に変化する事で、子どもは真の理解に到達するのだという。「つまずき」を放置するのは問題だが、意図的に「つまずき」を組織し理解に導く事が良い授業であるという。伊藤は「ほめる」教育に代わる新たなスタイルとして、「インタラクティヴ型支援」を提案する。「インタラクティヴ」とは「相互に作用し合う」という意味であり、本研究における「相互評価」とも関連のある概念である。従来型の教師が一方的に評価・支援するというスタイルではなく、双方向的な関わりを大切にしていこうという考え方である。上記のモデルは教師対生徒だけでなく、生徒同士においても応用されうるだろう。実際、伊藤は著書の中で自身の大学院時代のゼミナールでの「学び合い」の例を引きながら、教師と学生が主従関係ではなく個人として尊重され、自由に議論できた事を紹介している。伊藤は「インタラクティヴ型支援」の基本として「ほめるよりまず聴く事」を挙げる。一方的に指示・指導する事から脱却し「他者の声に耳を傾ける事」。この事はフロイトの精神分析からロジャースの非指示的カウンセリングに至るまで、精神医学に通底する基本的な考え方であり、我々教師が身につけるべき資質として今後ますます重要になってくると思われる。
(「子どもの側に立った音楽科教育課程を求めて」2007 札幌市教委 教育課程研究協議会提出レポート p.18)
長々と引用してしまい申し訳ありません。文中の伊藤進・三上勝夫両氏は、私が大学時代お世話になった教育大の先生です。伊藤氏からは大学院の時に、認知心理学による学習理論の基礎を学びました。文中で引用した「ほめるな」講談社現代新書(2005)は、専門の赤坂さんに紹介するのははばかられるのですが、極めて平易でわかりやすい良書かと思います。
「認めている存在から認めてもらうことが自信につながる」というのは、まさにその通りかと思います。齋藤孝が色々なところで語っている「憧れにあこがれる力」にも通じるのかと思いました。自分にとって価値ある対象からの承認こそが自己肯定感を育むのであり、闇雲に褒めても「馬鹿にされている」と思うのが関の山です。その意味で赤坂さんが「まず自分が子どもに尊敬される存在にならなくてはいけない」というのは、とても的を得た考えかと感じます。子どもの内発的な動機を高めるべく、まず教師自らが魅力的な他者として子どもの前に立ち現れていること。言い換えれば、いい意味での「権威」として存在することが、子どもの発達を支える者としての第一条件なのかもしれません。
うまくまとまらず長くなってしまいました。4月の人間塾には何とか参加できそうですので、その時にでも直接お話しできればと思います。新しい塾の準備等お忙しいかと思いますが、くれぐれもご自愛の上、益々ご活躍下さい。では失礼します。