2009.10.11 (Sun)
これでも「よろしかったでしょうか」を認めない奴は何が不満なんだ!
「よろしかったでしょうか」の過去形の何がダメだったのでしょうか?
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
が正しい日本語かどうかという話。
個人的には、こういう妙な言い回しがわざわざ使われるときには
きっとそれが使われることに意味があるのだと考えたいタイプだ。
たとえば「ら」抜き表現にしたって、
「来られる」というと受け身か尊敬か可能かわからないところを
「来れる」といえばこれは可能の意だとすぐにわかるのだから、
これも必要あって生まれた表現なのだと思うわけである。
そんなわけで文法的に正しい正しくないという話には
どちらかというと興味がないほうなのだけど、
せっかくの機会だから文法的根拠を考えてみようかなと思った。
英語でも"Could you~?"だと丁寧になるだろとか
「よろしかった」は婉曲表現だとかいう考え方もあると思うけど、
ここでは、日本語の「~した」は過去じゃなくて完了だからこれでいいのだ、
という可能性について考察してみる。
日本語は、時制でなくて「相」を問題にする言語だといわれる。
時制を問題にする言語である英語の場合、
常に「現在」(=話をしているこの瞬間)からみて
過去か今か未来かで表現を区別するのに対し、
日本語は、そういう不動の1地点を基準に過去と未来を分けるのでなく、
それよりも、その行動・状態の「完了の程度」を問題にするのである。
『日本人の英語』で説明されている例がわかりやすい。
上の英文では、北京へ行ったのが現在から見て過去のことなので
「went」を使っているのに対し、下の英文では、
北京へ行くのが現在より後のことなので、「go」を使っている。
しかし、日本語にするとどちらも「行く前」となり、
時制は違うのに、表現上の区別はない。
「北京へ行く」ことは「中国語を勉強」する時点では完了していないから、
「北京へ行った前に中国語を勉強した」ではおかしいのである。
このことは、「~した」というときの助動詞「た」の起源にも
その根拠を求められそうだ。
というのは、「た」は完了の助動詞「たり」が変化したものであり、
過去を表していた「き」「けり」とは本来別のものであるのだ*1。
そして現在でも、過去でなく、完了の意味で「た」を使っていることが
少なくないんじゃないか、実は。
例えば、久しぶりに会った人に「元気だった?」と聞かれて
「今だって元気だよ!」なんて答える人はいないだろう。
これは「元気だった?」が過去のことでなくて、
今の状態を含めて問題にしているのだとわかるからである。
問題は、日本人自身がこの過去と完了の区別に無自覚なことで、
それが時々混乱を生んでいるのだと思う。
A 「今度メジャーデビューするあのバンド、オレずっとファンだったんだよね~」
B 「『だった』って、過去形かよ(笑)」
A 「いや、『だった』っていうか、今もファンなんだけどさ(汗)」
こういう会話がよくある。
Bはもとより、A自身も、自分が完了形の意味で「だった」と言ったことに
気づいていないのだ。
今日の「よろしかったでしょうか」問題も、
つまるところ、このAとBの会話に収束するのでないか。
完了の意味で自然と使われていた「よろしかった」が、
「た」が過去形だという知識しかないばかりに「言葉の乱れ」の烙印を押され、
それゆえ、だんだんその表現を不快に思う人が増えていった、とか。
文法的根拠なんて、こうして後からいくらでも考えられるんだし、
というか文法なんてそもそも後付けなんだし、
普通に広く使われている表現が人為的に消されることのほうが
よっぽど不快な感じがするけどなぁ。
*1) 『日本語史』によると、室町時代に「き」「けり」「つ」「ぬ」「り」が一斉に姿を消して
「たり」のみが「た」になって残ったとのことなので、
実際には「た」が過去も完了も全て兼ねることになったのだろうと思われる。
関連エントリー:
・日本語にも定冠詞と不定冠詞の違いは存在するッ・・・!!
・日本と西洋における身体接触に関する感覚の違いと習慣の違い
・本当に「使える」言葉遣いを僕は知らなかった
「よろしかったでしょうか」の過去形の何がダメだったのでしょうか?
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
が正しい日本語かどうかという話。
個人的には、こういう妙な言い回しがわざわざ使われるときには
きっとそれが使われることに意味があるのだと考えたいタイプだ。
たとえば「ら」抜き表現にしたって、
「来られる」というと受け身か尊敬か可能かわからないところを
「来れる」といえばこれは可能の意だとすぐにわかるのだから、
これも必要あって生まれた表現なのだと思うわけである。
そんなわけで文法的に正しい正しくないという話には
どちらかというと興味がないほうなのだけど、
せっかくの機会だから文法的根拠を考えてみようかなと思った。
英語でも"Could you~?"だと丁寧になるだろとか
「よろしかった」は婉曲表現だとかいう考え方もあると思うけど、
ここでは、日本語の「~した」は過去じゃなくて完了だからこれでいいのだ、
という可能性について考察してみる。
日本語は、時制でなくて「相」を問題にする言語だといわれる。
時制を問題にする言語である英語の場合、
常に「現在」(=話をしているこの瞬間)からみて
過去か今か未来かで表現を区別するのに対し、
日本語は、そういう不動の1地点を基準に過去と未来を分けるのでなく、
それよりも、その行動・状態の「完了の程度」を問題にするのである。
『日本人の英語』で説明されている例がわかりやすい。
Before I went to Beijing, I studied Chinese.
(北京へ行く前に、中国語を勉強しておいた。)
Before I go to Beijing, I am going to study Chinese.
(北京へ行く前に、中国語を勉強する予定である。)
上の英文では、北京へ行ったのが現在から見て過去のことなので
「went」を使っているのに対し、下の英文では、
北京へ行くのが現在より後のことなので、「go」を使っている。
しかし、日本語にするとどちらも「行く前」となり、
時制は違うのに、表現上の区別はない。
「北京へ行く」ことは「中国語を勉強」する時点では完了していないから、
「北京へ行った前に中国語を勉強した」ではおかしいのである。
このことは、「~した」というときの助動詞「た」の起源にも
その根拠を求められそうだ。
というのは、「た」は完了の助動詞「たり」が変化したものであり、
過去を表していた「き」「けり」とは本来別のものであるのだ*1。
そして現在でも、過去でなく、完了の意味で「た」を使っていることが
少なくないんじゃないか、実は。
例えば、久しぶりに会った人に「元気だった?」と聞かれて
「今だって元気だよ!」なんて答える人はいないだろう。
これは「元気だった?」が過去のことでなくて、
今の状態を含めて問題にしているのだとわかるからである。
問題は、日本人自身がこの過去と完了の区別に無自覚なことで、
それが時々混乱を生んでいるのだと思う。
A 「今度メジャーデビューするあのバンド、オレずっとファンだったんだよね~」
B 「『だった』って、過去形かよ(笑)」
A 「いや、『だった』っていうか、今もファンなんだけどさ(汗)」
こういう会話がよくある。
Bはもとより、A自身も、自分が完了形の意味で「だった」と言ったことに
気づいていないのだ。
今日の「よろしかったでしょうか」問題も、
つまるところ、このAとBの会話に収束するのでないか。
完了の意味で自然と使われていた「よろしかった」が、
「た」が過去形だという知識しかないばかりに「言葉の乱れ」の烙印を押され、
それゆえ、だんだんその表現を不快に思う人が増えていった、とか。
文法的根拠なんて、こうして後からいくらでも考えられるんだし、
というか文法なんてそもそも後付けなんだし、
普通に広く使われている表現が人為的に消されることのほうが
よっぽど不快な感じがするけどなぁ。
*1) 『日本語史』によると、室町時代に「き」「けり」「つ」「ぬ」「り」が一斉に姿を消して
「たり」のみが「た」になって残ったとのことなので、
実際には「た」が過去も完了も全て兼ねることになったのだろうと思われる。
関連エントリー:
・日本語にも定冠詞と不定冠詞の違いは存在するッ・・・!!
・日本と西洋における身体接触に関する感覚の違いと習慣の違い
・本当に「使える」言葉遣いを僕は知らなかった
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その人為(主におっさん)も生きてる人間なんだよ
意見いっちゃいけないのか?
言葉狩りとか
被害者面だと思ってしまうわ。
言葉は世に伴い変化する。
だけと、反対矯正するのも、また世の中。
もうちょっと不快に思う人達のことをおもんぱかってもいいのではないかい?