2009.12.10 (Thu)
前に家庭教師をやってもらっていた学生のなかに、
コーチングに興味をもって熱心に学んでいた人がいた。
既に卒業して東京の企業で働いているが、
当時一度、家庭教師の指導現場へのコーチングの取り入れ方について
教授してもらったことがあった。
正直、そのときはあまり感銘を受けることはなかったのだが、
最近になって、その意図するところがようやくわかってきた気がしている。
そのとき教わったコーチング・メソッドの概要は
おおよそ以下のようなものであった。
前提として、生徒にはもともと「できる力」がそなわっている。
コーチである我々の仕事は、
本来できるはずの生徒にとって「障害」となっているものが何かを
生徒と一緒に考え、本人に気づかせ、
その障害を取り除くための道筋を質問によって導いていく、
というようなものであったと記憶している。
この話に、大筋では賛同できたものの、前提とされている、
「生徒はもともと『できる力』をもった存在である」
という部分について、どうも理想主義的なものを感じてしまい、
なんとなくしっくりこなかった。
でも、最近わかってきたのは、これは生徒にとって以上に、
我々教育者にとってこそ重要な考え方であるということだ。
家庭教師という仕事では、ちょっと油断するとすぐに、
ある思考に支配されがちである。
それは、「自分にやれることはやった」という思考だ。
生徒の成績が上がらないのは、
生徒がちゃんと宿題をやってくれないからだ。
自分が指示したとおりのやり方で勉強してくれないからだ。
学校の授業をちゃんと聞いていないからだ。
自分にやれることは、もう全てやった。
という思考。
生徒のせいにした時点で、自尊心は保たれるかもしれないが、
教師としての成長は止まる。
誰が悪いかといえば、生徒が悪い。
そうだとしても、それを解決することこそが
家庭教師に期待されていることなのだから、
そこを問題にしてもあまり意味がない。
上のコーチング・メソッドの前提は、この本質をとらえているのではないか。
生徒は本来できる子だ。
なのに、現状うまくできていない。
じゃあ、障害となっているのは何だろう?
指示した宿題をやっておくことができないなら、
宿題をやるために障害になっているものは何だろう?
これを生徒と一緒に考える。
それは、宿題をやる時間がないほど多忙な生活のせいかもしれないし、
やりたくても全然手がつけられないほど内容が難しいせいかもしれないし、
机の上が片付いていないせいでやる気にならないのかもしれないし、
テレビの誘惑に負けてしまうせいかもしれないし、
やる気はあるのに、いつもうっかり忘れてしまうせいかもしれないし、
睡眠不足で、眠気に勝てないせいかもしれないし、
学校でも宿題が出されることを想定せずに学習計画を立てるせいかもしれない。
そもそも「宿題」という言葉の意味を理解していないことだってありうる。
その障害が何かをはっきりさせた上で、どうすれば取り除くことができるのか
最も妥当な方法を、できれば生徒本人に考えさせ、提案させる。
提案させたら、それを実行させてみる。
それでもうまくいかなかったら、またうまくいかなかった原因を考える。
その繰り返しだ。
確かに、最後の最後の部分では、
やるかやらないかは結局本人次第にはなる。
だからといって、すぐに生徒の「意志」の問題にするのは、
教師にとって一番楽な方法だが、思考停止でしかない。
宿題をやらなかった生徒の「意志」の弱さをせめて、
「次こそはちゃんとやるか?」と詰問する。
生徒もその場ではやる気になって、「頑張る!」と返事するだろう。
しかし、結局またやれずじまいだと、
「自分は意志の弱いダメ人間だ」と自己嫌悪に陥らせることになる。
『夢をかなえるゾウ』のガネーシャも言っている。
「意志」を変えるのは一番簡単だ。
でも、結果を変えたければ、具体的な何かを変えなくちゃいけない。
そもそもやる気になっていない生徒の場合であれば、
焚きつけることも、ときには必要だろう。
しかし、やる気はあるのにできない状態というのは、
生徒にとってもつらいものだということは知っておくべきだ。
まずは生徒を「できる存在」と仮定すること。
そこが教育の、少なくとも家庭教師の、スタート地点である。
関連エントリー:
・悪者を排除しようとすることほど非建設的なことはない
・困るのはあんたなんだよ
・家庭教師の本質
コーチングに興味をもって熱心に学んでいた人がいた。
既に卒業して東京の企業で働いているが、
当時一度、家庭教師の指導現場へのコーチングの取り入れ方について
教授してもらったことがあった。
正直、そのときはあまり感銘を受けることはなかったのだが、
最近になって、その意図するところがようやくわかってきた気がしている。
そのとき教わったコーチング・メソッドの概要は
おおよそ以下のようなものであった。
前提として、生徒にはもともと「できる力」がそなわっている。
コーチである我々の仕事は、
本来できるはずの生徒にとって「障害」となっているものが何かを
生徒と一緒に考え、本人に気づかせ、
その障害を取り除くための道筋を質問によって導いていく、
というようなものであったと記憶している。
この話に、大筋では賛同できたものの、前提とされている、
「生徒はもともと『できる力』をもった存在である」
という部分について、どうも理想主義的なものを感じてしまい、
なんとなくしっくりこなかった。
でも、最近わかってきたのは、これは生徒にとって以上に、
我々教育者にとってこそ重要な考え方であるということだ。
家庭教師という仕事では、ちょっと油断するとすぐに、
ある思考に支配されがちである。
それは、「自分にやれることはやった」という思考だ。
生徒の成績が上がらないのは、
生徒がちゃんと宿題をやってくれないからだ。
自分が指示したとおりのやり方で勉強してくれないからだ。
学校の授業をちゃんと聞いていないからだ。
自分にやれることは、もう全てやった。
という思考。
生徒のせいにした時点で、自尊心は保たれるかもしれないが、
教師としての成長は止まる。
誰が悪いかといえば、生徒が悪い。
そうだとしても、それを解決することこそが
家庭教師に期待されていることなのだから、
そこを問題にしてもあまり意味がない。
上のコーチング・メソッドの前提は、この本質をとらえているのではないか。
生徒は本来できる子だ。
なのに、現状うまくできていない。
じゃあ、障害となっているのは何だろう?
指示した宿題をやっておくことができないなら、
宿題をやるために障害になっているものは何だろう?
これを生徒と一緒に考える。
それは、宿題をやる時間がないほど多忙な生活のせいかもしれないし、
やりたくても全然手がつけられないほど内容が難しいせいかもしれないし、
机の上が片付いていないせいでやる気にならないのかもしれないし、
テレビの誘惑に負けてしまうせいかもしれないし、
やる気はあるのに、いつもうっかり忘れてしまうせいかもしれないし、
睡眠不足で、眠気に勝てないせいかもしれないし、
学校でも宿題が出されることを想定せずに学習計画を立てるせいかもしれない。
そもそも「宿題」という言葉の意味を理解していないことだってありうる。
その障害が何かをはっきりさせた上で、どうすれば取り除くことができるのか
最も妥当な方法を、できれば生徒本人に考えさせ、提案させる。
提案させたら、それを実行させてみる。
それでもうまくいかなかったら、またうまくいかなかった原因を考える。
その繰り返しだ。
確かに、最後の最後の部分では、
やるかやらないかは結局本人次第にはなる。
だからといって、すぐに生徒の「意志」の問題にするのは、
教師にとって一番楽な方法だが、思考停止でしかない。
宿題をやらなかった生徒の「意志」の弱さをせめて、
「次こそはちゃんとやるか?」と詰問する。
生徒もその場ではやる気になって、「頑張る!」と返事するだろう。
しかし、結局またやれずじまいだと、
「自分は意志の弱いダメ人間だ」と自己嫌悪に陥らせることになる。
『夢をかなえるゾウ』のガネーシャも言っている。
「意志」を変えるのは一番簡単だ。
でも、結果を変えたければ、具体的な何かを変えなくちゃいけない。
そもそもやる気になっていない生徒の場合であれば、
焚きつけることも、ときには必要だろう。
しかし、やる気はあるのにできない状態というのは、
生徒にとってもつらいものだということは知っておくべきだ。
まずは生徒を「できる存在」と仮定すること。
そこが教育の、少なくとも家庭教師の、スタート地点である。
関連エントリー:
・悪者を排除しようとすることほど非建設的なことはない
・困るのはあんたなんだよ
・家庭教師の本質
shun |
2009.12.22(火) 22:41 | URL |
【コメント編集】
>shunさん
私の知っているshunさんであれば、
えーと・・・コメントどもです(笑)
私の知っているshunさんであれば、
えーと・・・コメントどもです(笑)
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面白い学生もいたもんですね。
きっとその元学生も、今頃社会人になって忘れていた心を
取り戻したんじゃないかなと思いますよ。