2010.02.09 (Tue)
【エッセイ】どうして日本人は質問しなくなるのか(ylab 山内研究室::Blog)
どうして日本人は中学校に入ったとたん大多数が質問をしなくなり、
それが大学まで、さらには大人になるまで続くのかという話。
これを読んで、ここには挙げられていなかった観点から
思うところがあったので、ひとつ。
このあたり、「質問が出ない」ということと
「手を挙げて発言する人がいない」ということが
一緒くたにされてしまっているような感じを受けた。
挙手発言が出ないことと、質問が出ないこととには、
それぞれに特有の要因もあるのではないかと思う。
手を挙げて自分の意見を言う人がいなくなるという点に関しては
上記事でいくつか考察されているようなことも考えられるし、
そもそも「自分の意見」を求められる機会などないという
学校の指導カリキュラムの問題も考えられるかもしれない。
だがこれらのこととは別に、「質問はありませんか?」と聞いたときに
手が挙がらないことには、また別の問題があるのではないか、という話。
そしてそれはずばり、「質問は悪」という意識である。
正解が決まっている授業、つまり「知識」を教え込まれる授業において
「質問」というものは「目立つから恥かしい」というより、
「理解できていないと思われるから恥かしい」ものである。
なので集団の中で手を挙げて質問することに何のメリットもなく
あとから先生に個人的に聞きに行くか、友達に聞きに行くほうが
理にかなった選択となる。
つまり、日本人にとって質問とは、少なくとも大学の学問以前においては
「理解力のない奴のするものであって、頭の良い奴には必要のないもの」
という認識なのだ。
小さい頃から長らくそうであるから、
この認識がなかなか大人になっても変えられない。
先日ちょうどある学生が、某所のアルバイトの面接を受けたとき
最後に「何か質問はありませんか?」と聞かれて、
「質問はありませんが、本当にここで働きたいのでお願いします!」
と答えたと言っていて、いやそれはウザいでしょーと話していた。
オマエは好きな女の子ができたときに
「私について、何か聞きたいことある?」といわれて、
「いや、特に知りたいことはないけど、付き合ってください!」
と答えるんかと(笑)
欧米との比較については私はわからないが、
齋藤孝氏は『質問力』にこう書いておられる。
日本人の「質問力」に関する認識は欧米に比べて格段に低い。
講演会では、欧米では講演が終わった直後に質問が出るが、
日本人はたいてい話が終わったところで質問を考えるので
すぐに手を挙げる人がいないと。
齋藤氏曰く、日本では考えて質問をするという当たり前のことが習慣化されていない。
講演会の場では、多くの人がその質問によって時間を奪われる。
だから、聴衆みんなのためになる質問を意識しなければならないだ。
日本人はそれができていない人が多いと。
以上。
質問が出ないという点だけに限って考えれば、
「出る杭は打たれる」な文化的思考も根強いのは確かだけれど、
「問い」が教育現場で軽視されてきたことに起因する部分も
少なからずあるのではないか、という仮説でした。
小学校だったか中学校だったか高校だったか忘れたけど、
評論文(あるいは説明文)で「最も大事な一文はどれか」と問われたときに
「~だろうか。」っていう疑問文は、その一文になりえないんだと、
私はいつかそう教わった。
疑問文には必ず答えの文が用意されていて、そっちが大事な文になるんだと。
文章の読解に関して、おおかたこの教えは間違っていないのだろうが、
本来、疑問文だって話題の中心におかれていいはずだ。
「問い」は正義。「質問」は善。
そういう意識付けの機会が早くからあるといいかも。
関連エントリー:
・浦沢直樹と北野武の対談、やっぱすごかったんだ―質問力
・大人メソッド、子どもメソッド
・340m/sで自分の声を聞きながら移動するという発想力
どうして日本人は中学校に入ったとたん大多数が質問をしなくなり、
それが大学まで、さらには大人になるまで続くのかという話。
これを読んで、ここには挙げられていなかった観点から
思うところがあったので、ひとつ。
不思議なことに日本の小学校の授業では活発な質疑応答があり、グループ学習でも議論がもりあがりますが、中学校に入ると、ぴたっと誰も質問をしなくなります。
限られた経験からではありますが、欧米の学校では、むしろ小学校の方が静かで、中学校・高校と進むに従ってしっかり自分の意見を言う学生が増えるように思います。
40人を相手にして「質問はありますか?」と聞くと手があがることはほとんどないのですが、ワークショップ形式にして4人で話をしてもらうと、制止しても止まらないほど議論がもりあがります。
このあたり、「質問が出ない」ということと
「手を挙げて発言する人がいない」ということが
一緒くたにされてしまっているような感じを受けた。
挙手発言が出ないことと、質問が出ないこととには、
それぞれに特有の要因もあるのではないかと思う。
手を挙げて自分の意見を言う人がいなくなるという点に関しては
上記事でいくつか考察されているようなことも考えられるし、
そもそも「自分の意見」を求められる機会などないという
学校の指導カリキュラムの問題も考えられるかもしれない。
だがこれらのこととは別に、「質問はありませんか?」と聞いたときに
手が挙がらないことには、また別の問題があるのではないか、という話。
そしてそれはずばり、「質問は悪」という意識である。
正解が決まっている授業、つまり「知識」を教え込まれる授業において
「質問」というものは「目立つから恥かしい」というより、
「理解できていないと思われるから恥かしい」ものである。
なので集団の中で手を挙げて質問することに何のメリットもなく
あとから先生に個人的に聞きに行くか、友達に聞きに行くほうが
理にかなった選択となる。
つまり、日本人にとって質問とは、少なくとも大学の学問以前においては
「理解力のない奴のするものであって、頭の良い奴には必要のないもの」
という認識なのだ。
小さい頃から長らくそうであるから、
この認識がなかなか大人になっても変えられない。
先日ちょうどある学生が、某所のアルバイトの面接を受けたとき
最後に「何か質問はありませんか?」と聞かれて、
「質問はありませんが、本当にここで働きたいのでお願いします!」
と答えたと言っていて、いやそれはウザいでしょーと話していた。
オマエは好きな女の子ができたときに
「私について、何か聞きたいことある?」といわれて、
「いや、特に知りたいことはないけど、付き合ってください!」
と答えるんかと(笑)
欧米との比較については私はわからないが、
齋藤孝氏は『質問力』にこう書いておられる。
日本人の「質問力」に関する認識は欧米に比べて格段に低い。
講演会では、欧米では講演が終わった直後に質問が出るが、
日本人はたいてい話が終わったところで質問を考えるので
すぐに手を挙げる人がいないと。
齋藤氏曰く、日本では考えて質問をするという当たり前のことが習慣化されていない。
講演会の場では、多くの人がその質問によって時間を奪われる。
だから、聴衆みんなのためになる質問を意識しなければならないだ。
日本人はそれができていない人が多いと。
以上。
質問が出ないという点だけに限って考えれば、
「出る杭は打たれる」な文化的思考も根強いのは確かだけれど、
「問い」が教育現場で軽視されてきたことに起因する部分も
少なからずあるのではないか、という仮説でした。
小学校だったか中学校だったか高校だったか忘れたけど、
評論文(あるいは説明文)で「最も大事な一文はどれか」と問われたときに
「~だろうか。」っていう疑問文は、その一文になりえないんだと、
私はいつかそう教わった。
疑問文には必ず答えの文が用意されていて、そっちが大事な文になるんだと。
文章の読解に関して、おおかたこの教えは間違っていないのだろうが、
本来、疑問文だって話題の中心におかれていいはずだ。
「問い」は正義。「質問」は善。
そういう意識付けの機会が早くからあるといいかも。
関連エントリー:
・浦沢直樹と北野武の対談、やっぱすごかったんだ―質問力
・大人メソッド、子どもメソッド
・340m/sで自分の声を聞きながら移動するという発想力
長谷川 |
2010.02.13(土) 23:38 | URL |
【コメント編集】
>長谷川さん
コメントどうもです。
お返事遅くなってごめんなさい!
模擬授業で(笑)それは恥ずかしい…。
質問しやすい雰囲気づくりっていうのは、
けっこう先生方も頭を悩ませることの多いポイントだとは思います。
コメントどうもです。
お返事遅くなってごめんなさい!
模擬授業で(笑)それは恥ずかしい…。
質問しやすい雰囲気づくりっていうのは、
けっこう先生方も頭を悩ませることの多いポイントだとは思います。
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来年度の模擬授業で、このネタ使わせてもらおうかな?
質問は恥ずかしいという意識が生まれやすい環境はたしかにあるので、質問しやすい環境作りに取り組まないといけませんね。授業と教室作りにいかそう…。