1930年に書かれた、どうやって幸福になろうかねーという本である。
前半部では人を不幸にする要因について述べられてるんだけど、
その中に、「世評に対するおびえ」という章がある。
近代社会の不幸
ラッセルによると、宗教改革以後、あるいはルネサンス以後、
近代社会は種々のグループに分かれていて、それぞれが
道徳や信念において著しく異なるという特徴を持つようになった。
例えば貴族は、中産階級の間では黙認されない様々な行動を許容していた。
宗教上の儀式を守る義務を認めない寛容主義者や自由思想家も現れた。
この状況は、その後ますます顕著になっていった。
芸術を賛美するグループもあれば、悪魔のものだとするグループもある。
不倫を最悪の罪と考える集団もあれば、容赦できるものと考える集団もある。
カトリック教徒の間では離婚は完全に禁じられているが、
たいていの非カトリック教徒の間ではそうではない、などなど。
特定の趣味と信念の持ち主は、あるグループ内では「はみ出し者」になるが
別なグループでは、全く普通の人間として扱われる。
ラッセルによると、このことこそが――特に若い人たちにとっての
――不幸を生むというのである。
自分の思想が彼らの環境においてご法度であると知ったときの若者の苦悩を、
ラッセルは以下のように表現している。
若い人たちは、とかく彼らの知っている環境のみが世の中全体を代表しているかのように考えやすい。彼らは、まったくのつむじ曲がりと思われるのがこわくて公言する勇気のない見解も、別な場所や別なグループでは、今時ごくあたりまえのこととして受け入れられる、などということは到底信じられない。このようにして、世の中を知らないために、ときには若いときだけ、往々にして一生涯、不必要な不幸のかずかずを耐え忍ぶことになる。このような孤立は、苦痛の種になるばかりでなく、敵意ある環境に対して精神的な独立を維持するという不必要な仕事に、膨大なエネルギーを浪費させることになる。
このような状況下で孤独の不幸から逃れるためには、
世評の横暴さを弱める、または回避する方法を見つけるか、
あるいは、少数派の知識人がそれぞれ知り合って、
お互いのつきあいを楽しめるような方法を見つけなければならないと。
このように考えたとき、アメリカのような広大な地では、
気心の合う人を見つけ、集団を作ることが特に難しい。
2010年現在、この不幸はほとんど解消されつつある
ただし、とラッセルは続ける。
現代世界では移動が迅速にできるので、人びとは昔のように
地理的に一番近い隣人に依存しなくて済むようになったと。
ただ近くにいるという理由よりも、気心が合うという理由で友人を選ぶことが、ますます可能になってきた。幸福は、同じような趣味と、同じような意見を持った人たちとの交際によって増進される。社交は、ますますこの線に沿って発展するものと期待される。そして、こうした方法により、現在、非常に多くの因習にとらわれない人たちを苦しめている孤独感は、だんだん減っていき、ほとんど皆無になってほしいものである。
2010年の今日のことを考えてみよう。
ラッセルが上のように指摘した孤独感の解消は、
まさにインターネットによって成し遂げられたと言っていいだろう。
我々は、周囲にはとても公言できないような思想について
「こんなことを考える自分は頭がおかしいんじゃなかろうか」と
深刻に頭を悩ませる必要がなくなった。
国中の人たちどころか、他国の人とさえも、
特定の趣味に関するコミュニティを利用する(あるいは作る)ことで、
共通の話題を楽しむことも極めて容易になった。
現在、周囲との考えの違いに苦悩することがあるとすれば
その多くはおそらく、職場環境におけるものだろう。
職業選択についても、ラッセルは以下のように勧める。
自分の環境とどうもしっくりいかないと思う若い人たちは、職業を選択するにあたっては、可能な場合はいつでも、気心の合った仲間が得られるチャンスのある仕事を選ぶように努めなければならない。よしんば、そのために収入が相当減るとしてもである。
『面白法人カヤック会社案内』の柳澤氏の言葉を借りるなら、
「何をするか」より「誰とするか」ということだ。
現実にはこのことは、つまり就業の時点で気心の合う職場を見極めることは、
現在の日本の就活習慣で考えると、まだまだ難しい。
それでも徐々にではあるが、twitter上で求人活動をする企業の登場、
あるいは日本の労働環境とは違った世界があることを教えてくれる
「ニートの海外就職日記」のようなブログの情報など、
やはりインターネットによって不幸が解消されつつある。
ウェブ2.0時代の不幸
だがインターネットは、新たな形の不幸も生み出した。
「炎上」である。
ある特定の趣味や思想に対し、それに反感を示す人同士のつながりも
容易に作られるようになってしまった。
それが特に大多数の人の関心を引くような話題であったときには、
匿名掲示板に晒されたり、ブログのコメント欄が荒らされたり、
企業に対しては電話やメールが殺到する、といったことが起こりやすくなった。
オタクの創作活動を晒して面白がるカジュアルな悪意について問題提起した
「創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。」
というエントリーが議論を呼んでいたことは記憶に新しい。
驚くべきは、この新たな不幸の誕生についても、
ラッセルが既に予言していたということである。
隣り近所を恐れることは、確かに、以前よりは少なくなっている。しかし、新手の恐れが生じてきた。すなわち、新聞が何を書き立てるかもしれないという恐れだ。これは、中世の魔女狩りに結びついている恐怖に劣らず恐ろしいものである。新聞がだれかを、もしかすると全然無害な人間をスケープゴートにしてやろうと決めれば、結果は非常に恐ろしいものになりかねない。さいわい、いまのところ、こうした運命からは、大部分の人たちは社会的に無名であるためにまぬかれている。しかし、宣伝がますますその方法を完璧なものにするにつれて、この新手の社会的迫害の危険は増大するにちがいない。これは、その犠牲になった個人が鼻先であしらうにはあまりにも由々しい問題である。言論の自由という大原則をどう考えるにせよ、現在の名誉毀損罪よりももっと鋭い一線を画するべきだ、と私は考えている。そして、罪のない個人にとって生活を耐えがたくするようなことは、いっさい禁止されなくてはならない。たとい彼らが、悪意をもって公表されれば不評を招きかねないようなことを、たまたま言ったり行なったりしたとしてもである。
完璧すぎるほどに再現されている・・・。
そして現在、この炎上そのものを取り締まるような法律はない。
上記に続けて、治療法は、とラッセルが述べていることは、
現代の我々に対して相当な重みを持っていると思う。
この害悪に対する究極的な治療法は、ただひとつ、一般大衆が一段と寛容になることである。寛容さを増やす最善の方法は、真の幸福を享受しているがゆえに、仲間の人間に苦痛を与えることを主な楽しみとしていない個人の数を増やすことである。
関連エントリー:
・「実りある退屈」という感覚
・「サイコロ給」に込められた想い―この「社則」、効果あり。
・あまのじゃくと社会構成主義―いわゆるフィンランド・メソッド
ほんと 幸せになりたい☆そのためには 人の幸せを願える人の数を増やすこと‥一つの親切の和がみんなに広がっていくのもそうなんでしょうね☆
同じ考えまたは反感の人 どちらにせよ ネットワークで時にはすぐ集まってしまう‥スピードの早さも今の時代ならではですよね。